忠義の士、鳥居強右衛門の跡地。
鳥居強右衛門磔跡石碑の特徴
鳥居強右衛門が磔にされた歴史的な地です。
忠義の士として名高い人物が語り継がれています。
長篠城の戦いに関連する重要な史跡です。
踏切のそばから田んぼの間を歩くとあります。ここから崖の下が長篠城です。鳥居強右衛門は命をかけて、「援軍が来る!」と仲間に伝えました。城兵は援軍が来るという希望を糧に長篠城は耐え切りました。長篠城が落ちていたら、武田勝頼は設楽原での決戦を選ばなかったかもしれません。彼の命をかけた覚悟の行動が、歴史を変えたのかもしれません。
畑の奥にひっそりと立っています。JR飯田線の鳥居駅から歩いて十分ほど、細い道を抜けると、豊川へ落ち込む斜面の手前に小さな一角があり、そこに石碑と説明板、そしてのぼり旗が寄り添うように置かれています。現在の石碑は昭和四十四年の飯田線工事に伴って移設されたもので、実際の磔の場所は線路際にあったと伝えられていますが、地形の迫り方や川との距離感は今も当時を想像させるものがあります。1575年、長篠城に援軍が向かっていることを知らせた強右衛門は、武田軍に捕らえられ、「援軍は来ないと言え」と強要されました。しかし彼はそれを拒み、城に向かって「援軍は来る、持ちこたえよ」と叫んだため、この地で磔にされたと伝わります。石碑の立つ場所は長篠城の真正面の対岸にあたり、城兵からもその姿がはっきり見えたとされる位置です。木々が茂って城は見えにくくなっていますが、ここなら声が届いたのだろうと自然に思える距離感が残っています。石碑の文字は徳川宗家十六代の徳川家達による揮毫で、静かな場所にありながら、歴史の重さをそっと刻んでいます。畑の中を歩いていくと、急に戦国の断崖が現れたような地形が目の前に開け、風が抜けるたびに、あの日の叫びだけが地形に残っているように感じられます。静かな土地に立つ石碑は、強右衛門が最後に声を届けた場所であることを、過剰な演出もなく淡々と伝えてくれます。
天正3年(1575年)4月、武田軍の攻撃で長篠城は落城寸前となり、最後の手段として鳥居強右衛門尉を岡崎城へ遣わします。5月14日夜に長篠城を脱出して15日の夜に岡崎城に到着。前日に到着したばかりの織田信長公と面会してすぐに出立し、5/16夜に長篠城に到着したそうです。以下、「三河物語」によると、鳥居強右衛門尉は武田逍遥軒信綱(信玄公の弟)の陣に紛れ込み入城の機会を伺いますが、竹束を背負って城に駆け入ろうとしたところを捕縛され、勝頼公の前に引き出されます。勝頼公からは「城のそばで磔にするので『信長は来ないので城を明け渡せ』と言えば、その後は武田家の家臣として知行を与える」との提案を受け了承。しかしいざその時になると鳥居強右衛門尉は、「武田には『信長は来ないと言えば命を助けて地行を与える』と言われたが、信長は岡崎まで、信忠(信長の嫡男)は八幡まで出馬。家康信康父子も野田に移っている。先手は、市之宮、本野が原に満々と布陣している。城を堅固にあと3日持ちこたえれば運が開ける」と叫び、すぐに武田軍に処刑されます。その場所がこちらのスポットだと言われています。「三河物語」では呼びかけたその場ですぐに処刑されたように読めますが、長篠城のすぐ北にも「呼びかけの伝承地」が存在しており、この辺りの位置関係は不明です。
『長篠城跡』を見学した足で対岸にある『鳥居強右衛門』の処◯された跡地にある石碑に合掌。この人マジで凄いからね。長篠城から浜松城まで走って救援を頼みに行って長篠城に戻る時に武田軍に捕まる。救援は来ないと長篠城に向かって言えば命を助けると武田勝頼に言われて承諾すると見せかけて織田信長、徳川家康の援軍がすぐそこに来てるから頑張れと発言して処◯された。武田軍の『落合左平次』って武士が敵であろうが感心したと言って『鳥居強右衛門』の処◯される瞬間の絵を描いて馬印にする事を本人から許可をもらった事で現存してる実話です。
長篠城址を見に行きましたが、城址自身はあまり見るものがなく、川向かいの強右衛門の石碑に行きました。当然ながら間には深い谷がありますので、車でぐるっと回る必要があります。東回りで近づくと「入口」と書かれていますので、「本当にここ?」という畑の間の細い道を進むと、突き当たり石碑があります。特に駐車スペース的なものは無い狭い場所なので、手を合わせたらさっさと戻るしかないのが惜しい。
武田軍に包囲された長篠城から救援を求める為、包囲を掻い潜り抜け出し、織田・徳川軍に窮状を伝える事に成功。籠城を続ける味方に一刻も早く救援が来る事を伝える為に帰還する途上で武田軍に捕らえられ磔にされた地。
鳥居強右衛(とりいすねえもん)が磔にされ処刑された場所。戦国時代、徳川家康配下の奥平信昌に仕えていた足軽です。磔は本当は頭が下らしく、絵は上下逆さまだそうです。
鳥居強右衛門が張り付けにされた場所とされています。駐車場がなく道もせまいので注意が必要です。
踏切あたりから畦道を直進します。看板がとてもわかりやすいので、とりあえず踏切近くのルートを選びましょう。
| 名前 |
鳥居強右衛門磔跡石碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[土日月火水木金] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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長篠の戦いの戦功者・鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が武田軍によって磔(はりつけ)にされ、処刑された場所です。天正3年(1575年)、武田軍に包囲された長篠城を救うため、強右衛門は密かに城を脱出して岡崎城の徳川家康へ窮状を訴え、援軍の派遣を取り付けることに成功しました。しかし、城へ吉報を持ち帰る途中で武田軍に捕らえられてしまいます。武田方は「援軍は来ない、降伏せよ」と城に向かって叫べば命を救うと持ちかけましたが、強右衛門はこれを拒否し、逆に「あと数日で援軍が来る、それまで持ちこたえよ」と叫んで城内の士気を高めました。激怒した武田軍により、長篠城の対岸にあたる豊川(寒狭川)の川原に磔にされ、非業の死を遂げました。現在、その場所には「鳥居強右衛門碑」が建立されており、己の命に代えて城を守り抜いた忠義の足軽の最期を今に伝えています。