調布駅近く、静かな猫娘神社。
下石原八幡神社の特徴
調布駅北口から歩いて行ける静かな無人の神社です。
下石原八幡神社は、地域を守る広い境内が魅力です。
ゲゲゲ忌の特別御朱印符などイベントも楽しめます。
・ゲゲゲ忌で御朱印頂いてきました。・御朱印は布多天神社で。合言葉が必要だった。
下石原八幡神社。御祭神は譽田別命。
この八幡様は、この地の領主であった太田氏の勧進によるものと伝えられる。品川通に『太田塚』という地名が残っているのを思い出しました。
表通りの交通の激しさを忘れらさせてくれる静かでいい感じの神社。敷地が広い。
境内が広くてとても静か。ゆっくり癒される空間が広がります。裏側には駐車場もあります。獅子舞は無形文化財だそう。
地区を守る小さなお社。ゲゲゲ忌に参拝して御朱印を拝受しました。御朱印はこちらの神社を兼務している布多天神社で頂けます。なぜゲゲゲ忌限定御朱印に猫娘が描かれているのかというと、こちらの神社に猫娘が住んでいるという設定だったため。ちなみに故 水木しげる氏が住んでいた家がすぐ近くにあり、よく散歩で水木しげる氏はこの神社を訪れていたとのこと。
敷地内は広々としてました。社殿も立派な造りでした。
R2.11.29参拝、布多天神社よりゲゲゲ忌の猫娘の御朱印拝受、
キレイにされている神社です。
名前 |
下石原八幡神社 |
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ジャンル |
/ |
住所 |
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HP |
http://www.city.chofu.tokyo.jp/www/contents/1176118968305/index.html |
評価 |
3.8 |
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調布駅北口から北西方向に少し歩いた先にある無人社です。この辺りの甲州街道は、歩道と車道の間に並木で遮られており分かり辛いですが、地図を見ると境内の参道から甲州街道を渡り、南西方面に伸びる旧参道と思しき道が旧別当寺の常演寺まで伸びており、往時の規模や信仰が偲ばれます。もし、関心がありましたら、当社に面した歩道橋を渡れば旧参道の面影をしのぶことが出来るかもしれません。特に痕跡は残っていませんが、白糸台掩体壕に在った看板によると、当社の林は戦時中は調布飛行場から出撃する陸軍機を隠すのに使われたようです。境内南西部のソロの木(別名イヌシデ)の枝ぶりはよく、しかし地面には当時の飛行機ならば隠せそうなスペースがありましたので、そのあたりを利用していたのかもしれません。ソロの林の奥には盛り土されたところがありますが、平たく分厚いガラス片が幾つか土に食い込んでおり、特に掩体壕目的で土塁を築いたというよりは、何らかの古い建物を解体したのかもしれません。ちょうど境内北西にシャッターが閉まった立派な神輿殿と思しき建物があるので、古い神輿殿があったのかな…と愚考しています。このように、航空機を隠していた痕跡は特にありませんでした。戦前・戦中を感じさせるものは、せいぜい拝殿向かって左側に建てられた『國威宣揚』と彫られた石碑のみとなります。国家神道が盛んな時期は旗竿が立てられ、国旗や旭日旗などが翻っていたのかもしれませんね。いずれにせよ、今は調布市保存樹木のソロが何本も生え、北側の広場に植えられたアカマツも調布市保存樹木に恥じない立派な物で、自然を楽しむことが出来ます。また、ソロ林の奥にはドングリが何個も転がっていますが、境内の外れにあり、少子化の影響か近年の子供はどんぐりで遊ばなくなったのか、踏み荒らされていない綺麗なドングリが沢山楽しめます。ジブリショップの『どんぐり共和国』にドングリを寄付するために喜んで拾いましたが、鮮度が高く、10月にも拘らずもう根を伸ばしている個体が幾つかありました。さて、当社のご由緒としては、旧社格は村社となり、甲州街道沿いの下石原宿の鎮守だった模様です。創建の年代は不詳ながら、当地の領主であった太田善右衛門の祖先が勧請したと伝えられています。なお、別当寺は先述の通り常演寺となりますが、源正寺が例祭の際には獅子舞を出したとの事でした。源正寺は、先述の領主・太田家の先祖である「太田対馬守盛久」が開基となり、天文年間(1532年~1555年)に南樹泉が開山して創建し、太田家の菩提寺となりました。なお、「太田対馬守盛久」は江戸城を築城した事で知られる太田道灌の弟・資忠(すけただ)の子孫と言われています。資忠が当地・石原に在陣中に石原出雲守の娘を娶り、その子孫が太田対馬守盛久との事でした。少々紛らわしいですが、太田資忠-(何代かの子孫にして源正寺開祖、おそらく当社の勧請者?)太田対馬守盛久-太田善右衛門という事でしょうか。太田資忠の出陣というと、おそらく長尾景春の乱で、兄・道灌と共に長尾方の反乱軍と戦ったのでしょう。この辺りについては初耳で、新しく勉強すべき課題が見つかり有難いです。今度は源正寺に太田氏の墓を見学に行きたいと思います。ただ、太田対馬守盛久-太田善右衛門の系譜については謎を感じたのは太田氏が代々諱(いみな)の通字としてきた『資(すけ)』の字がない事が気にはなっています。例えば、現在大河ドラマ太田道灌を実現するための署名活動や江戸城天守閣復元プロジェクトに奔走されている太田資暁氏は太田道灌(資長)公の18代目の子孫に当たります。盛久の諱は本家に遠慮したのか、後年太田家内部で家格の整理があったのか、はたまた主君から偏諱を受けて盛久にしたのか…色々謎が多いです。また、太田善右衛門も名前がおおよそ領主らしくなく、諱が別にあると思われます。この辺りは源正寺や調布市史にでも当たれば良いのか…色々アプローチを考えてみます。