埋没古墳、蘇我蝦夷の謎。
小山田古墳の特徴
小山田古墳は舒明天皇の初葬墓とされる歴史的な地点です。
巨大方墳の構造が印象深く、蘇我蝦夷の墓として注目されています。
発掘調査から明らかになった羨道が興味を引きます。
埋没古墳。かつてここに巨大古墳があった。(一辺70mの方墳、築造時期7世紀中頃(640年代)と推定)被葬者としては、蘇我蝦夷の墓とする説、舒明天皇の初葬地とする説があり、考古学者を二分する大論争になっている。蘇我蝦夷の墓とする説の場合、日本書紀に「(蝦夷が)生前に双墓を造る。一つを大陵で蝦夷の墓、一つを小陵で入鹿の墓とした」と記されており、小山田古墳を大陵=蝦夷の墓、菖蒲池古墳を小陵=入鹿の墓と考える見方がある。この説に関連して、毎日新聞(2017.3.1)に以下の記事が掲載されている。『乙巳の変後、巨大すぎる蝦夷の大陵は壊され、政変で死亡した蝦夷、入鹿の2人は小陵に埋葬されたと考えられる(明日香村教委・相原嘉之文化財課長)。乙巳の変後は蘇我氏にとって厳しい時期で、蝦夷の墓として、あの巨大方墳は『許されない大きさ』。菖蒲池古墳石室内の奥の石棺が蝦夷、手前が入鹿ではないか(猪熊名誉教授)』また、産経新聞(2017.3.1 )には、舒明天皇の墓とする立場から以下の記事を掲載。『橿原考古学研究所が「舒明(じょめい)天皇の初葬墓の可能性が強まった」と発表。~中略~また、奈良文化財研究所の職員として飛鳥・藤原宮跡の発掘調査を担当した木下正史・東京学芸大名誉教授は今回の調査を受け「舒明天皇の初葬墓」説を支持。「飛鳥最大の古墳で、推古天皇陵などより大きい。舒明天皇は、国家仏教の出発点といえる百済大寺を造営するなど、新しい政治を行った権力者。小山田古墳はそうした力を示すもので、蘇我氏がつくれる規模ではない」とする。』
ここは養護学校の敷地内に有る為小山田古墳の案内看板は有りません。
2019/01/31 産経ニュースより舒明(じょめい)天皇の初葬墓とされる奈良県明日香村の小山田(こやまだ)古墳(7世紀中頃)で、墳丘西端部が初めて確認され、橿原考古学研究所が31日、発表した。これまでの調査で約70メートルと想定されていた墳丘の東西幅は、80メートルを超えることが判明。全国最大級で、飛鳥時代最大の方墳であることが確実となった。今回の調査では、墳丘西端部のテラスと、地表下3メートル付近から約50度の傾斜がついた斜面を初めて確認。室生安山岩などの石材も大量に出土し、西側斜面も北側と同じく石材で覆われていたことが分かった。古墳は約72メートルの北辺に比べ、南辺がやや長い台形とみられる。墳丘中心線から調査地までの距離は39・7メートルで、左右対称と考えると全長79・4メートル。これに墳丘を覆う石材の幅1・4メートルを含めると、80メートルを超えるという。規模は同県橿原市の桝山古墳(一辺約90メートル)に迫り、飛鳥時代で最大とされていた千葉県栄町の龍角寺(りゅうかくじ)岩屋古墳(同約78メートル)を上回ることが確実となった。橿考研は当初、小山田古墳を舒明天皇の初葬墓としていたが、岡林孝作調査部長はこの日の記者会見で、「所内でもさまざまな議論がある」と言及。蘇我蝦夷(えみし)も被葬者の可能性があるとの見解を初めて示した。一方、舒明天皇の初葬墓とみる菅谷文則所長は「石舞台古墳よりも大きく、舒明天皇の初葬墓にふさわしい」としている。
蝦夷の墓っぽい。しかし、そんな重要なところに学校立てますか…。
「舒明天皇初葬墓」か「蘇我蝦夷の大陵」か?
過去9度の発掘調査から、かなり巨大な羨道が出てきており、舒明天皇や蘇我氏の墓である可能性が指摘されています。一般公開の時は立ち入れますが、普段は養護学校の敷地内のため立入はできません。もちろん遺構は埋め戻されています。
ちょっと意外にも破壊されている古墳でした。
2017/08/24 夕方のニュースで。7世紀頃の大型の方墳。羨道と呼ばれる通路の大きさから、同時代の古墳の中で最大規模の石室を有すると判明したらしい。当時の最高権力者であった、舒明天皇や蘇我蝦夷の墓である可能性があるとのこと。歴史ロマン。
素人目ながら、常識的に見て蘇我蝦夷の墓に違いないと思う。蘇我氏滅亡の際に、暴露され、徹底的に破壊されたのだろう。 が、稲目の墳墓と言われる都塚は完全破壊されていない。自然消滅のような感じだ。疑問は残る.......それにしても、墳墓を容赦なく破壊する当時の権力争いは現代では考えられない。
名前 |
小山田古墳 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.4 |
周辺のオススメ

中に入れませんでしたが散歩の途中で寄りました。