古河公方の歴史感じる公園。
古河公方館跡の特徴
鎌倉公方五代・足利成氏公が構えた館跡です。
当史跡には土塁と掘切が見られ、歴史を感じます。
古河公方館は、広い公園内に位置しています。
古河公方の鴻巣御所跡。
広い公園です。桃の時期に観光されるのが良いと思います。
古河公方の館があった場所。後ろにあるのは移築した民家であって公方の館ではない。古河公方足利成氏は最初にここ鴻巣御所に移ったのちさらに北方にある古河城に入城したという。鴻巣というから鴻巣市まで支配したのかと勘違いしていた。
古河公方足利成氏館跡…ここは古河城の別館があった跡で「鴻巣御所」とも呼ばれていた。康正三年(1457年)…古河公方 成氏.政氏.高基晴氏.義氏 に至る120余年の間 関東一円にわたり重要な位置を占めて居ました。…茨城県指定文化財。
鎌倉公方五代・足利成氏公が享徳の乱で鎌倉から出陣してこの地に館を構えた所です。鎌倉公方から古河公方の流れは個人的には好きなんで行けて良かったです。
石碑の奥に当時を偲ばせる土塁と掘切が見られる。但し夏は虫多し。
【当史跡】は、室町幕府の東国統治の機関である「鎌倉府」のトップである鎌倉公方が、幕府中枢と衝突して鎌倉の地を離れて、古河に拠点を築いた場所。2年後に修築を終えた「古河城」に移るまで、ここが関東の中心地であった。当史跡は、公方家の別邸や迎賓館として「鴻巣御所」とも呼ばれていた。古河城とは船で行き来ができる関係を有する。【経緯】享徳4(1455)年に第5代鎌倉公方・足利成氏(アシカガシゲウジ)が鎌倉から古河に本拠を移し、初代古河公方となった(享徳の乱)。その後も政氏(マサウジ)・高基(タカモト)・晴氏(ハルウジ)・義氏(ヨシウジ)へと約130年間引き継がれる。義氏が死去し、彼の娘の氏姫(ウジヒメ)へ事実上の相続が成された。彼女は、名族の血を継ぐ者として誇りを体現して、徳川幕府から下野国喜連川を分知されたにも関わらず、終生古河の地に留まった。【氏姫】は、古河の地を去らず、鴻巣御所で生を全うできたのだろうか?。通常では他藩の藩主正室が領内に留まるのを良しとせず、成敗されるのが落ちではないだろうか!。彼女の夫は、下野国喜連川藩主であるので、さらに奥州に近づくのが嫌がったのだろうか?。古河藩や徳川幕府は、それを許したのは何故なのだろうか?。喜連川家は、徳川家の本家に該当するためだろうか。このために喜連川藩は、石高を持たない藩であった。【移転要因】(鎌倉から古河へ)は、地政学的な要因と御料所立地要因があるようだ。古河が、関東における上杉勢力と反上杉勢力との境界に位置するとともに、同地は、公方家の領地が鎌倉府が立地する相模国と下河辺庄であったために相模国が上杉勢力に押えられたために、下河辺荘の北辺であるために選ばれたのだろうと思われる。【所在地】は、茨城県古河市鴻巣(〒306-0041)である。当地は、御所沼に突き出た半島状の付け根部分に位置する。【コロナ】対策は、屋外施設なので、特に対策は講じられていない。他の公園内の施設には手指消毒液が設置されている。【接道】は、公園名にも使われる「公方通り」となり、南北から公園進入路に西進することで当進入路の左右に整備された付属駐車場に入場することができる。公方通りは、南端で主要国道4号線の「中田町」信号機から分岐し、北端は信号機「台町三叉路」で「県道野木古河(261号)線」に入り、「野木」で国道4号線に合流する。なお、当通りは、旧日光街道でもある。【駐車場】は、公方通りからの進入路の左右に駐車場が整備されて、無料で使用できる。アスファルト舗装白線引きなので、安心して駐車できる。なお、春に開催される「桃まつり」の期間中は、有料となるので注意が必要である。【トイレ】は、進入路の先に管理棟があり、この中に男女別入口が分離して整備されている。また公園を散歩等で周遊する時には園内各所にトイレが配置されている。(訪問日令和5年3月20日(火))
| 名前 |
古河公方館跡 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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公園内の管理棟西側、御所沼に半島状に突き出た台地(舌状台地)と付け根部分が古河公方館(鴻巣御所)跡である。古河城に移る前の拠点だったとのこと。縄張は半島状の台地を主郭として、付け根の民家園と公園外東側畑に残る土塁迄、そしてその東側の外郭になりそうだ。明確な遺構は、民家園北に一文字に広がる空堀、土塁、土橋と東側公園外の畑に残る土塁(断片)だろうか?訪問した当日は半島部分(主郭)には作業中で立ち入り禁止だったためそこの遺構は確認できなかった。古河公方がここにいた歴史的事実と開発されず残された遺構の存在は大変貴重だ。郷土の自慢として大切にしてもらいたい。