関根の後藤家と鶏権現で深まる歴史探訪!
| 名前 |
鶏鳥温泉にわとりおんせん神社 |
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| ジャンル |
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| HP |
https://www.city.nasushiobara.tochigi.jp/soshikikarasagasu/nomuchikusanka/1/sateraito/13108.html |
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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関根の後藤家の氏神として祀ったことに始まり、鶏権現とも呼ばれる。感冒の神としての信仰が強く、参拝すると風邪にかからないといわれた。御神木のケヤキと杉にまつわる話が多く、御用材として御神木を伐採しようとしたところ、祟りによって、多数の病人やケガ人が出たため、伐採が中止になった話が伝わる。明治七年(1874)六月二十はち、刻の、石柱。文政六年(1823)、刻の、二十三夜塔。明和六年(1769)十月、刻の、庚申供養塔。が右側にあり、参道にはいる。天保十年(1839)五月吉祥日、刻の、火袋のない、常夜燈、一対。天保十二年(1841)八月吉祥日、刻の、火袋のない、奉納温泉大明神の石灯籠一対。弘化二年(1845)、刻の、石仏一基。参道が左に直角に曲がり、右側に、地藏仏のおさまる、仏塔。右側に、天保五年(1834)、刻の、石灯籠一基。左側に、天保七年(1836)四月吉祥日、刻の、石灯籠一基。どちらも、奉納鶏鳥大権現とある。右側に、弘化四年(1847)、刻の、山神、の大きな石。金属の手すりが両側にある、拝殿がある。拝殿の中、右側に、鶏の陶器が二つある、木の祠一宇。狭間の彫刻と彩色が美しい。左側に、同じく、狭間の彫刻に彩色のある、木の祠一宇。その前に、相馬寛哉の絵馬、を参考に描いたと思われる絵馬が立てかけられている。鶏鳥神社の絵馬 明治三十七年(1904)、西富山出身の日本画家相馬寛哉が、関根の人々の依頼で、鶏鳥神社の境内に生えていたケヤキをひいて造ったもの。二羽の鶏と菊の花が描かれている。相馬寛哉は、山水花鳥、とりわけ、花鳥を得意とし、特に鶉を好み、「うずらの寛哉」といわれた。作者、39歳の時の作品である。正保二·三年(1645·1646)、会津藩は、江戸に米を運ぶための専用道として、原街道を開いた。米の輸送が中心であったことから、「米附街道」「米積街道」とも呼ばれた。後には、白河藩や二本松藩も廻米輸送に用いた。那珂川西より平沢間は、明和初年開墾が行われるまでは、東那須野、西那須野といわれた原野であったために、原方道·原街道の名称が起こったらしい。馬ではなく、牛を使って運ばぬばならないほどの悪路であったために、「牛街道」とも呼ばれた。奥州街道の脇街道である。「那須野こぼれ話」の那須文化研究会の木村康夫さんは、荷渡り、から、にわとり、鶏鳥神社につながるのではないか、という話をしておられた。原街道で荷渡りの仕事に従事する人たちが、荷渡りの無事を願ったのであろうか!?二十三夜塔や庚申供養塔や、石灯籠など、のきなみ、江戸時代の年号で、小さいながら、古い歴史を持つ社である。