古事記の墓、茶畑の風景と共に。
太安萬侶の墓の特徴
急な坂を登ると、茶畑に囲まれた美しい景色が広がります。
太安萬侶の墓は、古事記の編纂者が眠る歴史ある場所です。
整備された手すりや、綺麗なトイレが設置されています。
昭和54年(1979年)に茶畑の改植中に偶然見つかった火葬墓です。奈良県立橿原考古学研究所が調査し、墓誌から記紀『古事記、日本書紀』の編纂したとされる太安万侶の墓であることが分かる歴史的な発見がありました。車一台がやっとの狭い道路を通ってたどり着くのですがトイレ横に1、2台停められる駐車スペースが有ります。車よりはトレッキング向きの長閑な田園にある観光スポットといった感じです。トイレや歩道も綺麗に整備されていて急な坂道を登りますが距離は無く茶畑からの眺めも良かったです。田原地区は映画『殯の森』の舞台でもあります。多(太)氏は皇別氏族屈指の古族で九州を始め多くの後裔があり本流一族が住んだ奈良県磯城郡田原本町多の『多坐弥志理都比古神社(多神社)』には安万侶を祀る“小社神社“や寺川の興仁橋近くに墓だとされていた参り塚があります。出生には不明な点が多い安万侶ですが支流の都祁直出身で生まれ故郷に葬られたようです。橿原考古学研究所の附属博物館では墓誌や真珠、墓の復元模型などが常設展示されています。
かなり急な坂を登った所にあります。日本書紀や古事記の編纂にも関わった太安万侶の墓です。奈良時代の上級官人の墓が構造と遺物の出土状況等が明らかにされた例は稀だそうです。急坂を登りきれば眼下に茶畑一面が広がっています。
あまり目立たない標識なので、通り過ぎそうになった。公衆トイレの横に少しスペースがあるので、そこに駐車。あとは急な坂を必死に登ると5分くらいで到着。墓は、南向き斜面の茶畑の中にあり、なぜこんな辺鄙なところに?と思える。火葬されていて墓誌もある。中は木炭を敷き詰めた構造になっている。宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓とよく似ている。奈良時代の高級官吏がなぜ平城京から離れた場所に葬られたのか。両者とも埋葬場所はしばらく忘れ去られ、たまたまその地を耕作していた農夫が発見している。二人には共通点が多い。
坂道はかなり急ではあります3分位かなトイレが非情に綺麗でした地元の方が愛情を持って掃除されている心が感じられました。
被葬者:太安萬侶太安萬侶(おおのやすまろ)は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族で、古事記の編纂者と伝えられています。和銅4年9月に第43代・元明天皇から史書を編纂するよう命じられ、和銅5年(712年)1月に古事記として天皇に献上しました。昭和54年(1979)1月23日、当地の茶畑から太安萬侶の墓が発見されました。墓からは火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したそうで、墓誌によると太安萬侶は左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等であったこと、養老7年7月6日(723年8月11日)に没した事なとが記載されています。拝:2020/11/07
車でないと行けない。途中、狭い道なので 小さな車が便利。駐車場はないけど、トイレの脇にスペースに車を止めて尋ねる。大和茶畑を登っていったところにある。道は整備されているので、坂はキツイけど、ゆっくり登っても5~7分くらいで着ける。上から眺める茶畑も良い景観。
高台にあり、お茶畑を見渡せる景色が良いね。坂道は急ですが手摺が設置されています。
昭和54年1月23日(1979年)に畑の持ち主の竹西英夫さんが茶畑の木の植え替え作業中に、炭と骨の一部、銅板を発見されました。橿原考古学研究所が発掘調査をおこない、これらを調べてみると太安萬侶の墓だと言うことが分かりました。出土した銅板は、「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と書かれた墓誌でした。これによりそれまで実在の人物かどうかが疑われることもあった太安萬侶の存在が立証されました。
古事記を稗田阿礼さんと御作りになられた方がお休みになられている場所です。これほど有名な方なのに、この場所が見つかったのは約40年前。なぜなんでしょうね。何種類の美しい花、茶畑に囲まれ、お日さまと向き合い、夜空に包まれ、、一年中自然の喜びを感じておられる。そのほんの一瞬を感じさせてくださるこの空間に感謝。
名前 |
太安萬侶の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.1 |
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少しだけ路肩に車を停めて歩いて向かいました。登口は新しい公共トイレが目印です。向かうまでの上り坂は短いですがとても急です。墓所の雰囲気は落ち着いていました。