高崎城址公園の戦の名残。
高崎歩兵第十五聯隊趾之碑の特徴
城址公園入口に位置する目立つ石碑が印象的です。
慰霊碑としての重みを感じられる場所です。
歴史を感じる趣深いスポットとして訪れる価値があります。
よーわからん。
慰霊碑みたいな感じです。
大日本帝国陸軍の歩兵連隊のひとつ。西南戦争後の軍備拡張により、群馬県高崎市に創設。群馬、埼玉、長野県の出身者を中心に編成。日清、日露戦争、満州、上海両事変、日中、太平洋戦争等全ての戦役に参加。昭和16年から始まった太平洋戦争の激化により、十五連隊は南方パラオ諸島に派遣され、ベリリュー島の攻防を巡ってアメリカ軍と激戦を交え、2個大隊分(凡そ2000人分)の犠牲を払うなど多くの戦死者を生んだ。近くの龍廣寺に陸軍墓地があり、忠霊之碑、戦死病没者慰霊之碑、日露戦争時の捕虜、元ロシア人兵士の墓などある。ベリリュー島でのエピソードは有名で、当に日本人軍人の誇りを後世に残すものであり、15連隊の兵士がその争いに参加していたと知った時は、争いが急に身近な存在に思えるようになりました。平和な日本を創るため犠牲になった方々に感謝申し上げると共に、再び戦争の悲劇を起こさせないように強く心に思いました。
城跡に戦争時の名残の石碑が。
城址公園入口にある目立つ石碑。高崎歩兵第十五連隊は明治17年5月発足、高崎に駐屯。パラオに行った。
城址公園入口にある目立つ石碑。高崎歩兵第十五連隊は明治17年5月発足、高崎に駐屯。パラオに行った。
| 名前 |
高崎歩兵第十五聯隊趾之碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.5 |
| 住所 |
|
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高崎歩兵第15聯隊の戦いのうち、著名なのがやはりペリリュー島の戦いとなる。高崎歩兵第15聯隊第3大隊(千明大隊:大隊長は千明武久)は、水戸歩兵第2聯隊と共に、ペリリュー島の防衛に参加。千明大隊は、ペリリュー島南部「高崎湾」近くに布陣。昭和19年9月15日にペリリュー島に上陸していたアメリカ海兵隊に対し高崎歩兵第15聯隊第3大隊は相手を一時大混乱に陥れる大奮戦をする。高崎歩兵第15聯隊第3大隊と対峙した海兵第1師団の戦いぶりは、後年に「太平洋戦争で最も激しくもっとも混乱した戦闘」と称されている。昭和19年9月16日に大隊本部戦闘指揮所で陸軍大尉千明武久大隊長は戦死(最終階級は陸軍少佐)。大隊長戦死後も大隊は奮戦反撃をかさねるも、第15連隊第3大隊の残存部隊は、島南部でアメリカ軍の第7海兵連隊に追い詰められて、爆薬を抱いて戦車に突入するなど勇戦敢闘しつつも、最後は断崖から身を投じる兵士もいるなど、一兵残らず戦死して18日までに750名全員が玉砕した。アメリカ軍上陸の1週間後に決行された、ペリリュー島逆上陸作戦では、高崎歩兵第15聯隊第2大隊(指揮官飯田義榮少佐)から先遣隊村堀隊として、第5中隊(指揮官村堀中尉)215名が9月22日夜半にペリリュー島上陸し、水戸歩兵第二聯隊と合流。翌23日に飯田義榮少佐の第2大隊主力総兵員570名も出撃。すでも先遣隊の動向を把握していた米軍によって、逆上陸部隊本体は米軍に捕捉攻撃をうけ、高崎歩兵第15聯隊第2大隊は飯田少佐ら100余名足らずとなり悪戦苦闘しながらも、9月28日に中川大佐の水戸歩兵第二連隊主力との合流に成功した。ペリリュー島逆上陸を敢行した高崎第15聯隊第2大隊は最後まで、水戸第2聯隊と行動をともにする。昭和19年11月24日に、水戸歩兵第2聯隊の聯隊長と、高崎第15聯隊第2大隊の飯田大隊長の司令部は自決を遂げ、11月27日には全員玉砕を遂げた。