安祥城址公園で歴史探訪。
大乗寺の特徴
安祥山大乗寺は、徳川家の始まりに深い関わりがあります。
美しい楼門が印象的な安祥城本丸跡に佇むお寺です。
歴史探訪には最適な安城町赤塚に位置しています。
徳川家康、松平どちらかというと、岡崎、豊田がイメージとしては強いですが、実は、こちらのお寺が、徳川家の始まりのお寺なのだそうです。家康のお父さんが、織田信長の父の攻撃が、頻繁に起こるので、岡崎へ逃れることになったのだとか。なので、一番はじめは、安城が発祥の地なんだそうです。ご住職さんが教えてくれました。
安城の大乗寺は、安祥山大乗寺とも安祥山了雲院大乗寺とも称します。司馬遼太郎は『覇王の家』で「安祥アンジョウとは、むろん地名である。三河国碧海郡安祥ミカワノクニアオミノゴオリアンジョウ。いまは愛知県安城市という。しかしながら徳川家にあっては、これはただの地名ではなく、名誉と自負心と忠誠心を象徴する神聖語というにちかい」と述べています。松平徳川家臣団において「わが家は三河以来の…」「安祥以来の…」という言葉は大いなる誇りを表していました。徳川将軍家の先祖松平親忠・長親・信忠・清康(家康の祖父)の四代が安祥城を本拠地としていた時期に家臣となった安祥譜代が、他の譜代衆(岩津や岡崎など)に比べてはるかに中心的な存在で、大名旗本御家人として数百数千の家に拡がり江戸幕府を支えるのです。松平家が本拠地としていた時期のあとの安祥城は、織田信長の父信秀に攻め取られ信長の兄信広が城代として守る織田家の城にしばらくの間なっていました。その十年間に何度もあった攻防戦が安祥合戦です。その最後の戦いが今川義元軍の総攻撃で松平家とともに奪還して、信広と竹千代とが人質交換されました。今川家の時期は井伊直盛(女城主直虎の父)と天野景泰が城代となりました。直盛は数年後桶狭間で義元とともに戦死します。桶狭間戦以降は松平家の城に戻り、小牧長久手戦の時に城の縄張りに手が加えられたようです。その後は安城を領する旗本の館、代官所などになっていた時期もあったようですが、江戸時代半ば以降には村民の畑にもなっていたそうです。そんな城跡に、享保年間に火災で全焼して仮本堂だった大乗寺が、もともと安祥城の殿様(親忠)が建てたお寺だからということで、移転して再建されました。寛政四年のことです。
私が小学生の頃(40年くらい前)は遠足や社会見学に行きましたが、写真に写っている門が立派ですが、お城が建っていた面影はありません。家康の母親が隠れていたと聞いてますが真意は定かではありません。
安祥城本丸跡!
安祥城本丸跡美しい楼門ですね。1489年松平親忠が安祥城の鬼門除けとして城の北東に建立した「了雲院」が安祥城本丸跡に移転した建てられたお寺。長きに渡りここ安祥城周辺は対織田家の激戦地となっていましたが、1560年桶狭間の戦いで「今川義元」討死し、今川家から独立した徳川家康が安祥城を奪取し、1562年織田信長と徳川家康の清州同盟も結ばれ、安祥城は廃城となりました。また、「了雲院」は江戸時代はじめに『安祥合戦戦没将士総菩提所』として忠興そして1792年、「了雲院」がここ安祥城本丸跡に移転し「安祥山大乗寺」と寺号を称した寺院となり現在に至ります。また、大乗寺の北側にある墓地の一角に、ここでの戦で亡くなった徳川四天王の一人「本多忠勝」の父「本多忠高」の墓碑があります。(本多忠高の父の忠豊もまた安祥城を巡る戦いの中で討死しています。)本多家の松平家徳川家への忠誠心は目を見張るものがありますね!そして、その墓碑は徳川家に特に貢献したものに許される亀の上に墓碑が建てられています。中国由来とも言われていますが、顕彰を讃え、末永く後世に残ることを念じて建てられたのでしょう。
天守閣跡地のお寺、門前に石碑があります。
立派なお寺です。歴博の隣。
安祥城址に建っている様です。
安城市安城町赤塚の〔安祥城址公園〕に〔了雲院大乗寺〕がある。本堂の前の築山に芭蕉句碑が建っている。 けふはかり人もとしよれはつしくれ 桃青翁 明治31年(1898)に建立された碑で、句は元禄5年(1692)の作。この辺りは〔安祥城〕のあったところで、安祥城は天正9年(1581)に徳川家康によって廃城となった。
名前 |
大乗寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0566-76-4097 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.0 |
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ご縁があり、お参りさせていただきました。お忙しいところ、御朱印もいただきました。ありがとうございます。