小豆坂古戦場で歴史を感じる。
小豆坂古戦場の特徴
織田信秀率いる織田軍が激闘した場所です。
太原雪斎が率いる今川軍との戦いがあった重要な史跡です。
小豆坂での戦国時代の戦いにロマンを感じることができます。
歴史の好きな人以外は立ち寄るほどではない。「血洗い池」と言う名前が有名で、戦国時代に、池の水が血で真っ赤に染まるほどの激戦であったと聞く。大勢の人が死んだことから、人によってはオカルトスポットとして捉え、霊感が強いのでそういう気配を感じると言う人もいる。怪奇現象を見たと言う人は聞かない。戦国時代に尾張の織田勢と駿河の今川勢が戦った地して有名。攻めてくる今川に対して織田方の7人が槍を振って奮戦し、小豆坂七本槍と呼ばれた。彼らがやりを立てて休憩した松が槍立松と呼ばれる。今、松はなく句碑のみである。
古戦場の看板の正面は交通量が多く全く駐車できません。狭い範囲に石碑が固まってますが他から移されてここに集められたものもあるようです。
こんなところに織田や明知の壮絶な古戦場があったとは驚いた、ロマンがある。車を止めて、ハザードたいて見物してたら、バッテリーが昇天したのは呪いか?
信長の1世代前の話。松平の三河に織田信秀・今川義元が勢力拡大を狙い進出し2回の激戦があった場所。幹線道路沿いにあり、案内も無いので知らなければ通り過ぎてしまいます。駐車場もありません。幹線道路から曲がって裏側の道にしばし路駐して見学しました。
交差点の近くの一角に、石碑と説明板がいくつも建っています。当時の雰囲気は既に全然分からなくなっていますが、今川義元と織田信秀の時代、松平家康と三河一向一揆の時代に激戦が繰り返されたとこのこと。もっとクローズアップしてもいい場所だと思います。
戦国時代に、太原雪斎率いる今川軍と織田信秀率いる織田軍と三河の主権をめぐって戦があった場所です⚔️
天下統一の先駆けともいわれる歴史上重要な三度の戦いがあった場所です。総じて小豆坂の合戦と呼ばれています。1542年織田信秀(信長の父)と今川義元が小豆坂にて激突し、織田軍が勝利したといわれています。この戦いでは織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂の七本槍と呼ばれました。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松だと伝えています。そして6年後の1548年、再び両軍が小豆坂で戦いました。織田4千、今川1万の大軍でした。1564年には勢力を増した土呂・針崎の三河一向一揆一向一揆と徳川軍との戦いもあり家康側が勝利し一揆の終息を早めました。数々の合戦の場として、槍立松、血洗池など多くの伝承を残しました。そしてこの小豆坂の三度の合戦を経て、世は天下統一に進み出したとも言えます。(紋の碑、戦没者慰霊碑、そして馬洗い池等はこの場所と少し離れたところにあります。)
小豆坂の合戦は一回だけだったのか、それとも二回あったのか、それが問題だ。もう少し詳しく書くと、小豆坂の合戦は天文11年と17年の2回あったと云われていますが、天文17年の合戦は今川方にも感状が残っているので、間違いないのですが、天文11年の合戦の方は確実な資料は『信長公記』のみ。しかも天文11年と17年では戦いの内容はかなり違っています。はたして天文11年の小豆坂の合戦はあったのか、なかったのか、それが問題だ。
戦国時代、矢作川を挟んで対立していた織田家と松平・今川家は、ここで二度にわたり激闘がありました。清洲を本拠としていた織田家は、お家騒動でゴタゴタしていた松平家の三河を攻略すべく西三河に進出。一方、松平氏の後見人として、東三河から西三河への勢力拡大を狙っていた今川家が、勢力の境界線だった矢作川沿いのここ小豆坂で衝突しました。織田家と今川家の軍事的緩衝だった松平家の弱体化により、左右から狙われた格好であり、まるで現代の米中の地政学的に緩衝地域となっている日本や朝鮮半島のよう。すると、同盟国のアメリカは今川家?既存勢力への挑戦者である中国は織田家?ということ?
名前 |
小豆坂古戦場 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.5 |
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この小豆坂古戦場付近は、戦国期複数の合戦のあった場所で、この石碑はもともと有った場所から寄せ集めた記念碑的な立地に建つもののようです。ともあれ歴史番組や歴史小説にもたびたび登場する古戦場なので一度は来ないといけないと思い見学しました。駐車場はなく、竜北?メーンロード脇に石碑と案内板があるのみです。史蹟としての見どころはありませんが、この地が当時要衝で複数の往還路があったため合戦が繰り広げられたことがよく分かります。この古戦場碑の脇から幸田、蒲郡へ抜ける古い街道を知れたので良しとします。