仲哀天皇陵の美しき墳丘。
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇 恵我長野西陵)の特徴
仲哀天皇の陵墓として知られ、多くの歴史的魅力があります。
古市古墳群の一部で、国内16位の規模を誇る古墳です。
墳丘245mの前方後円墳で、手入れが行き届いた美しい景観が特徴です。
神功皇后の夫にして応神天皇の父で、福岡の香椎宮で亡くなったとされる14代天皇の陵。なかなかの規模で、周濠の面積も広い。
古市古墳群を構成する大規模前方後円墳です。当然天皇陵に比定されているので、遥拝所から見学するのみですが、駅から歩くだけでもその大きさから実感できます。駐車場はあるような感じですが、柵がしてあるので期待しない方が良いかもしれません。
2月の中旬に訪れましたが、梅の花が綺麗に咲き始めていました。近くにある学習センターアイセルシュラホールの駐車場に車を停めて、中にある歴史展示コーナーを見学してから、古墳まで徒歩で向かいました。こちらの古墳には周囲を歩く遊歩道が一部しかありませんでしたが、静かでとても清々しい時間を過ごすことができました。
測量図で墳丘の現状の形を観察すると、段の数が異常だったりと、よく分からん状態になってます。なぜなら、中世にこの古墳に城が建てられ、その際にだいぶ変形してしまったからです。堀の幅が50mもあり、城の堀の役割を上手く果たせていたのかも知れません。墳丘もまた大きく、長さ242mというのは全国16位もの大きさを誇ります。拝所や前方部の角側から写真を撮る事ができます。後円部側からも撮ろうと思い着いてみると堤が高すぎて何も見えない!調べてみるとこれは地形的な問題だそうです。そんな岡ミサンザイ古墳ですが、宮内庁により仲哀天皇惠我長野西陵(ちゅあいてんのうえがのながののにしのみささぎ)に治定されていて、立ち入る事は出来ません。仲哀天皇(?〜200、享年不明)は日本武尊の次男で、叔父にあたる先代政務天皇に後継が不在だったため天皇となりました。応神天皇の父で、仁徳天皇の祖父にあたります。この仲哀天皇陵は仲哀天皇の生没年と大きくずれた5世紀後半の築造と考えられており、本当はここは雄略天皇の墓なのではないか、とも噂されております。堤に生える松と、水をたたえた堀、そして奥に生える木がとても美しい古墳です。秋は葉っぱがちょくちょく色づいています。
仲哀天皇の墓とされてますが、おそらく違うでしょう。堀幅が広く周りが民家なので正面以外は見る事も難しく駐車場などもありません。もっと観光資材として活用する事を願うばかりです。中は手付かずの森となっており神秘さが伺えました。
ヤマトタケルを父とする第14代天皇である仲哀天皇陵とされている前方後円墳。熊襲討伐のため筑紫遠征中に熊襲の矢に撃たれ筑紫で崩御し、穴門(今の山口県下関市)に埋葬されたとあり、被葬者が仲哀天皇かは定かでないと言う説もあるそうです…中規模の古墳で宮内庁管理だけあって陵や周辺は綺麗に管理されていました。周辺を歩くと前方後円だと言うのが分かります近鉄南大阪線藤井寺駅から15分程歩くか御陵前まで近鉄バスが便利です。
仲哀天皇の古墳です。父親はあの有名で、実在性の低いとされる英雄の大和武尊で、皇后は、三韓征伐で名を馳せた神功皇后、子供は河内王朝の始祖とされる伝説的な応神天皇です。大和武尊、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、全員が日本神話の中の人物の話で、実在しない可能性が強くあります。この仲哀天皇陵も、考古学的には子供の応神天皇とされる古墳の後に築造されたものであり、年代的に矛盾があり、仲哀天皇が実在しても、本人の古墳では無いでしょう。
世界遺産・古市古墳群を構成する古墳のひとつで、国内16位の規模を持つ前方後円墳。5世紀末の築造と推定されている。実在したかどうか疑問視されている第14代仲哀天皇の恵我長野西陵に治定されているが、実際の被葬者は明らかではなく、最近では第21代雄略天皇、あるいは倭王武の御陵とする説が有力視されている。中世以来、古墳全体が城郭として利用されたことが知られ、大坂の陣でも豊臣方の拠点が置かれていたとする説がある。宮内庁が管理する墳墓だが、墳丘裾や周辺は宮内庁、大阪府、藤井寺市が発掘調査し、埴輪列や埴輪片が見つかっているが、埋葬施設や副葬品は不明。21/01/18、葛井寺、野中寺、辛国神社をお参りした際に陵のお堀を一巡りしたが、水鳥が遊ぶお堀のそばから遠くに生駒山が見えた。これだけのものなので、被葬者は絶大な権力者だったのだろう。
仲哀天皇陵。立派です。ここの周辺には古墳がいくつか点在しています。
名前 |
岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇 恵我長野西陵) |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
周辺のオススメ

古市古墳群の中の古墳が葛井寺の近くに点在します。近くには「武内街道」も緩く在ります。良く言えば歴史ロマンの香ばしさ♥しかし、現実は「本物はどれなんだ!」とは誰も叫ばず、公園整備もされず、発掘調査しないから指定解除にも成らず。40年程前に「歴史読本」だったかな?理由は忘れたけれど幕末頃に古墳の整備された(木が植わっていない図面の)絵が何枚か掲載されていて、アレから今に至るのか?。思い出したけれどその少し前に「仁徳天皇陵」に探検に乗り込んだ地元中学生が、戻ったらタマタマ付近を巡回していた警察官に上手く補導されて持ち帰りの土器破片のお宝!?を当たり前に没収されたとのニュースもありました(笑)「前方後円墳」は本当に墓地なのか?前に韓国でも前方後円墳が発見されて、ルーツは半島だとか騒いでいたけど言わなくなったね。これも以前に奈良の古墳の近くのキャンプ場で泊まった時に、たまたまその頃水不足で、農家の人がポンプで水汲みに来たの目撃したけど、近所の人は毎日どんな体験しているのか?。唯の「環壕集落」の施設の一部だったらどうするつもりなんだろう?。宮内庁の軽トラが今日も暑い中草刈りしていたけど、ぐるり周ってイロイロ思い出したり想ったり。しかし、空が青いなぁー。