武田二十四将の足跡をたどる。
原昌胤屋敷跡の特徴
武田家家臣、陣馬奉行の歴史的な屋敷跡です。
甲斐武田氏の家臣団、武田二十四将の一人を感じられます。
武田十二人の一人とされる由緒ある場所です。
武田家家臣、陣馬奉行の屋敷跡。
武田十二人は一人になる(原文)武田二十四将の一人。
甲斐武田氏の家臣団・武田二十四将の一人に数えられる。1531年?~1575年武田信玄晴信・勝頼二代に仕える。父は武田信虎の譜代家老・原加賀守昌俊。正胤の出自・原氏は。美濃土岐氏の庶流とされる。1550年、父の死後家督を継ぐと武田氏の陣馬奉行となり、戦では中心的役割を果たした。同盟国であった今川氏との関係悪化により、駿河侵攻に至り正胤は国境付近・富士郡の支配を担った。一時期、原因は明らかでないが失脚していた時代もあったが、信玄の晩年には、武田家の最高職・両識の役を負うほど重用された。勝頼の代・1575年の長篠の戦いによって戦死、この長篠の戦いの大敗北により武田家は滅亡への道をたどる。地元の努力により、格武将の居住地など武田氏本拠・躑躅ヶ崎館の周りに説明板などを整備、武田家がそれだけ甲斐山梨の人々に愛されているのだろう。
| 名前 |
原昌胤屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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原昌胤は武田24将の1人で、父の代から武田家に仕えています。いわゆる武田4天王と比べると知名度は今ひとつですが、信玄公から厚い信頼を受けていました。「甲陽軍鑑」によると、信玄公は毎年末に限られた家臣だけを集めて会議を開き、翌年の国の方針を決定していたそうです。秘匿性の高い会議だったらしく、参加者は信玄公の他に山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、春日虎綱、原昌胤、書記として小山田信茂だけだったとのことです。また、西上野国の武田領国化に伴い、跡部勝資と共に「取次」に任命されています。取次はその地域の国衆が武田氏に上申する際の窓口みたいな役割で、地域をまとめることもあったようです。軍事面では、合戦の際に陣形や軍の配置場所を決める陣場奉行を務めました。その特性を活かして道の整備などの土木関係にも力を発揮し、あの「信玄堤」の建設にも関わったそうです。長篠合戦では山県昌景と共に左翼を担当しますが、撤退戦の途中で討死しました。