戦国の歴史が息づく河尻秀隆の首塚。
河尻塚の特徴
夏場の参拝時には虫に注意が必要な穴場名所です。
武田攻めの際に軍監を務めた河尻氏の塚があります。
歴史の一コマとして、河尻秀隆の首塚がある場所です。
金網柵がありましたが扉を開けて直接触れることができました。大正時代に建てられたものなので由来は当てになりませんが、穴場で面白いです。ゲートボール場の横を少し通りますがグラウンドを踏まないように注意しました。
信玄公墓所に行くとチラチラ出てくる案内板に出る塚。折角だしよるかと舐めた気持ちで行くと、墓所反対の敷地に不法侵入をかましてしまう事請け合いのトリッキープレイス。1枚目の写真。これが入口です。(笑)塀と個人宅の間、40センチ位が入口。更に碑がある土地自体は、1畳位。💧墓所を背に右に進み、左に曲がる道を見つけたら間の住宅を避けるようにぐるりと回った先に有ります。プレステのフラッグ集めかよ!と思ったり。
織田信長の武田攻めの際の軍監であった河尻氏の塚。本能寺の変を受け、地元の者にうちとられ、ここに逆さに埋められたのだとか。
もう20年近く前におとずれた。ラジオのサッカーでゴールゴールゴールゴールと連呼された日である。信玄の墓を見た後、当時は紙の地図で確かめながらこちらにたどり着いた。ネットに挙げるべきデジタルデータはない。フィルムカメラで納めたからだ。しかし、、民家の隣にただたたずんでいる石塔。石仏石碑より酷い。甲斐武田家滅亡後に、信長により甲斐支配を任された川尻秀隆の墓とは思えない。いや、塚と称されてる以上、まともな形式で葬られたとは思えない。本能寺の変で甲斐信濃が動乱し、それを抑えられなかった。徳川より送られた使者を切ったといわれるが、死人に口なし。一気に寄って八つ裂きにされて無残な最期を迎え、そこに遊行聖人あたりが塚を作ったのだろうか。とにかくあまりにも不憫な、そして無念な塚である。言い伝えでは遺体は逆さまに埋葬されたというが、もはや確認のしようがない。今はただ、訪れた人が手を合わせること、そして冒涜しないことだけが唯一の手向けであるように思う。
本能寺の変の後、武田の旧臣達の反乱の中、殺害された川尻秀隆の墓。彼は甲州攻め時の織田信忠の副将でした。
本能寺の変後に武田家の元家臣等の反乱によって殺害された河尻秀隆の首塚です。説明板によると塚に刻まれている「肥後守」は誤りで「肥前守」が正しいそうです。
戦国時代の武将、河尻秀隆の首塚とされている場所です。グラウンドの一角にポツンとありました。
歴史の一コマがこんな街角にあるのです。
名前 |
河尻塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
3.2 |
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穴場的な名所ですが、あまり整備されておらず、とくに夏場の参拝は虫に注意。スズメバチに刺され、帰りは病院経由になってしまいました・・・。