静かな犬塚城跡で御朱印。
玉満天満神社の特徴
玉満天満神社は菅原道真公が御神祭される場所です。
犬塚城跡に位置し、歴史を感じる参拝が可能です。
賑やかなセミの鳴き声が心地よい境内です。
菅原道真公が御神祭の『玉満天満神社』元はこの地側面に五十間四方、約90m四方程の犬塚城が築かれていました。そこ時期は江戸時代初期になります。一ノ鳥居を過ぎると、両脇の田んぼを突っ切るように神殿へと続く一本道が。ニノ鳥居を過ぎると、右手に犬塚城後の石碑が建てられています。その先の楼門の刻まれた装飾にご注目。中央に柱を支えるように力士っぽい人がいます。この手の装飾は初めてで目を見張りました^ ^周りを見渡すと素晴らしい楼門です。その先を抜けると拝殿、幣殿、本殿へと続きます。正面から左奥に石板の由緒書がありました。【由緒書】応仁の乱(一四六七~七七)の頃、時の九州探題職で肥前国 綾部城主(現佐賀県みやき町)、渋川教直が筑後の土豪の行動を探るために築城し、長男政実を城主としたが、文明七年(一 四七五) 政実は二十七歳で死去した。その後、綾部城内での渋川家の内紛は、肥前国の大名である少弐政資につけ込まれ、教直の三男で綾部城主となった刀祢王丸は、延徳元年(一四八九)政資に落城させられ犬塚城に落ち延びた。翌二年、政資と豊後・筑後守護職の大友親の軍が出兵し筑後の土豪衆は、我先にと駆け寄り犬塚城を攻めたので、 刀祢王丸は防戦できずに落城し、肥前国勝尾城(現佐賀県鳥栖 市)へ遁れた。落城後、政親に犬塚城番を命じられた蒲池繁久は、弟の家久を城主として任務に当たらせた。家久は犬塚氏と称し、その男家貞は明応年間(一四九七頃)肥前神崎郡崎村(現佐賀県神 崎市)へ移住築城し、周防長門守護職の大内義興に討たれた政資の遺児資元の挙兵加担を契機に一族は繁栄した。犬塚家久は、永正元年(一五〇四) 大薮(現福岡県大木町) へ移り円照寺を開いた。その後、大善寺玉垂宮の大祝である隈鎮保が犬塚城主となり三十五町四反を領有した。天正十五年(一 五八七)豊臣秀吉の九州平定で没収され廃城となり江戸初期に 村人たちが古城を開き田畑とし、寛永十五年(一六三八)に天満宮を遷した。落城後、政親に犬塚城番を命じられた蒲池繁久は、弟の家久 を城主として任務に当たらせた。家久は犬塚氏と称し、その長 男家貞は明応年間(一四九七頃)肥前神崎郡崎村(現佐賀県神 崎市)へ移住築城し、周防長門守護職の大内義興に討たれた政資の遺児資元の挙兵加担を契機に一族は繁栄した。犬塚家久は、永正元年(一五〇四) 大(現福岡県大木町) へ移り円照寺を開いた。その後、大善寺玉垂宮の大祝である隈 「保が犬塚城主となり三十五町四反を領有した。天正十五年(一 五八七)豊臣秀吉の九州平定で没収され廃城となり江戸初期に 村人たちが古城を開き田畑とし、寛永十五年(一六三八)に天 満宮を遷した。大正三年(一九一四) 三潴郡の耕地整理で城堀は埋め立てられたが、水路土居として再利用された土塁遺構と、社の東には 櫓台に用いた古墳らしき遺構や陣堀が残っているまた、城門 (張口\u003d原口)の跡と伝える天満宮裏口の坂や「馬場」、「城ノ上」 地名から往時を偲ぶことができる。平成三〇年三月改訂久留米市。
今は、セミの鳴き声が大きく気持ちが良いですよ。
御朱印はありますが、お電話での予約?になるみたいです。神社はそんな大きくないのですが、周囲に高い建物がないので、とても広々としていて気持ちが良い神社です。
犬塚城跡に建てられた天満宮。堀が今も残る。400年位前かな。
電話をしてから伺いましたお忙しい中 丁寧に対応して頂き感謝です御朱印は弓頭神社と合わせて2社分頂きました。
名前 |
玉満天満神社 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0942-64-3123 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.9 |
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職場が三潴町となり氏神様として参拝しています。立派な御朱印も頂きました。宮司の森山さんも穏やかな雰囲気の優しくてあたたかい方です。