歴代名士が息づく、法心寺近くの名所。
加藤清正公胸像と由来石碑の特徴
加藤清正公が建立した法心寺のすぐ近くに位置しています。
旧鶴崎市・大分市東部の名士の名が刻まれた銅板があります。
交通の要衝にあるため、多くの人々が往来する場所です。
横の銅板を見ると、旧鶴崎市・大分市東部の名士の名が続々と。
清正公が建立した法心寺の仁王門のすぐ近くにあります。
この胸像のすぐ近くに加藤清正公が創建したと伝わる法心寺があり肥後熊本藩の飛び地である鶴崎への清正公ひいては歴代熊本藩主の重要度がうかがえるな交通の要衝でもあり人の往来も多いってのがそもそもの理由やろな。
| 名前 |
加藤清正公胸像と由来石碑 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 営業時間 |
[木金土日月火水] 24時間営業 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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元々は大友氏の重臣中の重臣である吉岡長増が鶴崎城を築城した場所である(その前は南西の千歳城に代々いた)。大友義鑑・大友宗麟に仕え政治・外交・軍事と幅広く数々の実績を残したが80歳頃に亡くなると大友氏は衰退に向かう。子の吉岡鑑興は耳川の戦いにて戦死してしまい、その子 統増が継ぐ。豊臣秀吉・大友連合軍vs島津軍となった豊薩合戦では統増は大友宗麟と一緒に丹生島城に籠っていたので鶴崎城は吉岡鑑興の妻(出家して妙林尼と称す)が守っていた。妙林尼は農民や女性に銃の扱いを教え守りを固め島津軍の侵攻を何度も跳ね返した。最終的には和睦するが一転して島津軍を招き入れ酒宴を開き警戒心を解いた。そして秀吉軍が九州に近付いていると知り島津軍が撤退を始めると妙林尼は島津軍に奇襲をしかけ、伊集院美作守や白浜周防守らを討ち取ったという。鶴崎中央区公民館前に吉岡妙林尼の像が建立されている。どうにか所領を守ることが出来たが主家の大友義統が朝鮮出兵の敵前逃亡で改易に合うと吉弘氏も浪人となりその後は細川氏に仕えるなどバラバラになったっという。そして関ヶ原の合戦の後に鶴崎は肥後熊本藩の加藤清正の所領(飛び地)となり、清正の治水事業により鶴崎は港町として発展していくことになる。目の前にある法心寺は熱心な日蓮宗徒であった清正による建立でその縁により清正公胸像が造立されたようである。その後、熊本藩を継いだ細川氏に受け継がれ、江戸時代にはこの地にお茶屋敷も作られたという。