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名前 |
寺沢兵庫頭堅高公の墓碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
兄が早逝したため、若干17歳で二代唐津藩主の座に就きます。初代・広高公の治世から続く、飛び地・天草での厳しいキリシタン弾圧により、天草一揆を勃発させてしまいます。その時、堅高公29歳。失政の責任を問われ、唐津藩天草領4万石は没収。自責の念に押し潰されたのか、堅高は自害(享年39歳)。後嗣がいなかった寺沢家は改易となりました。後世では、いろいろな評価を加えられます。一口に「暗君」「二代目の穀潰し」と評するのは容易いことでしょう。しかし、公儀からの圧や異教徒への世間一般の感情、2代目に向けられる衆目─諸般の事情も一定の考慮はしなければならないと感じます。天草の乱の一件があるだけに、唐津では寺沢家のことがあまり語られないのかも知れません。少なくとも初代・広高公は、その晩年を除いて、名君と言える人物だと思うのですが。やらかした事がそれだけ大き過ぎたってことでしょうね。