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名前 |
宮崎定直の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.0 |
「宮﨑定直」公墓碑の建立に至るまでのあらましは、先に投稿された方が、詳細に述べておられるので、私からは以下の2点についてコメントさせていただきます。⑴墓の建立者碑文では、この墓の建立者は「則岡(分太夫)久忠」の嫡孫「則岡長太郎」となっています。有田の郷土史家「生駒佳三」氏は彼の著作の中で、「長太郎」に該当する人物は、「(分太夫)久忠」の孫である「(勘六郎)吉久」と比定されていましす。※①ここに江戸中期から後期に作製されたと思われる東京大学史料編纂所蔵『則岡系図(原題「本国河州橘姓則岡氏系図」』(以下『則岡系図』とよぶ)という史料があります。この16頁に、墓碑の建立に至るまでの経過と関係者について記述されています。※②結論から言うと、墓碑に刻まれている建立者「長太郎」とは「(分太夫)久忠」の曾孫「保教」のことを指し、「長太郎」は彼の幼名です。現代でも末裔のことを末孫と表現することがありますが、この時も曾孫の「長太郎」を則岡氏の嫡流の子孫という意味で、嫡孫と表現したと考えられます。そして墓碑建立後、嫡孫「長太郎」は、第十一代目当主「則岡(増右エ門)保教」となるのです。また墓が建立されたときの「長太郎」の年齢は『則岡系図』から判断すると、凡そ七歳前後と考えられ、碑文に「幼名」が刻まれていることも納得がいきます。加えてこの史料の同じ頁には、「保教」の幼名を「長太郎」と明確に記述されています。なお「(勘六郎)吉久」は『則岡系図』によると、「長太郎」の叔父であり、幼い彼の後見人として、「長太郎」が独り立ちするまで、墓碑の建立を始めとする様々な家中の実務を取り仕切っていたと考えられます。⑵墓の変遷「宮﨑定直」公の墓は計2回建立され、その後元々あった場所から移転しています。ちなみに上記の碑文が刻まれた現在の墓は2代目です。初めて墓が建立されたのは、元和五年(一六一九)六月十八日で、「(分太夫)久忠」が「宮﨑定直」公の遺言にしたがって現在の場所に墓を建立しました。※➂2回目は先に申し上げたとおり、「(分太夫)久忠」の曾孫「長太郎(保教)」が、元文三年(一七三八)六月の嵐で損傷した墓を再建しました。※④そして3回目は、建立ではありませんが、墓付近の工事の関係で、享和三年(一八〇三)七月十五日に「保教」の嫡子第十二代目当主「(十左ェ門)知貞」が、墓を数メートル程度移動させたとあります。※⑤なお、平成十一年(一九九九)十月初旬に起こった暴風雨で、墓の下から骨壺と思われる甕が出現し、その中には錆び朽ちた鉄片が入っていました。有田市教育委員会が調査したところ、室町~戦国時代のものと思われる兜と判定しました。その兜は現在、有田市立郷土資料館で観ることができます。※⑥以上が「宮﨑定直」公墓碑の変遷です。『宮原愛郷会』を始め、この地域を愛する人々に護られながら、この墓碑は現在も、建立当時と変わらぬ場所で安置されています。※註①生駒佳三『甦る宮﨑貞直と有縁の人びと』私家版、2000年、85頁②東京大学史料編纂所蔵『則岡系図(原題「本国河州橘姓則岡氏系図」』、16頁➂『②に同じ』、14頁④『②に同じ』、16頁⑤『②に同じ』、17~18頁⑥『①に同じ』、8~9頁・77~79頁。