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名前 |
湾洞越 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
元々は山裏村として同じ行政区だった、現在の日之影町見立地区と高千穂町上岩戸地区とを繋いでいた、生活道の峠部分になります。眺望は全く無く、景色を楽しみたいなら、峠の両サイド部である「月の丘」「太陽の丘」と呼ばれる高台に更に登って行かねばならない様です(私は行きませんでした)。見立地区側から入山し、登山道は概ね歩きやすかったですが、張られたロープを伝って崖際を通行しなければならない箇所など、気を抜けない所もあるので油断は禁物です。また下山時はまだ陽は高かったですが(15:00台)、日之影町という名称は伊達では無く、山中は驚くほど薄暗かったです。見立地区側から往復する方は、時間に余裕を持って下さい。以下、現地説明板より------------------------------------------------西郷さんも越えた湾洞越(わんずうごえ) 標高998mこの峠は、高千穂町岩戸地区と、日之影町見立地区とを山領でわける、四つの峠の一つです。この内、東西に流れる渓谷沿いの見立地区は、江戸時代の高千穂郷十八ヶ所村中の一村で、岩戸地区の現在の大字上岩戸地区とを併せて、この様な峻険な山岳を挟んで「山裏村」が古称でした。明治22年(1889)、この山裏村が岩戸村と合併し、新生岩戸村の行政区となりましたが、さらに、昭和31年(1956)に至り、岩戸村と高千穂町の合併に際し、地元民の強い要望により岩戸村から分村し、日之影町の行政区に編入されて、見立地区となりました。明治10年(1877)8月21日、先の延岡・和田越えの決戦で、官軍に敗れた西郷隆盛旗下の薩摩軍約600人は、険しい山岳の屋根沿いにこの峠を越えて、ふもとの岩戸村水の内の戸長(元庄屋)宅や、谷間の民家になだれ込み大休息をとりました(戸長日記)。その日、三田井の町で一泊した西郷軍は、起死回生を期し古里城山に籠もりましたが、武運つたなく、翌月9月24日、全軍城山の露と消え果てました。あえぎながら、この峠に達した薩摩軍は、血刀を帯び、又は鉄砲を杖と頼み、総帥西郷の身を案じながら峠を降りて行ったことでしょう。湾洞越は、西南戦争のロマンを秘めた峠です。文・岩戸永の内 碓井哲也平成22年4月建立 天の古道実行委員会------------------------------------------------