雲仙普賢岳の記憶を巡る旅。
定点三角錐の特徴
島原半島ユネスコ世界ジオパークの一部として訪問できる仕組みです。
雲仙普賢岳大火砕流の災害遺構が間近で見られます。
防災ジオツアーに参加して歴史を学べる貴重な体験です。
20240322記「定点三角錐」。ここは1991年6月3日に発生した雲仙普賢岳の火砕流で、43名という多くの尊い命が失われた大災害における象徴的な場所となっています。周辺一帯は現在も砂防指定地区のため、立ち入り禁止で近づくことは出来ません。この災害の経緯や経過、被害の実態や得られた教訓、科学的知見や社会的影響といった側面は、既に他に詳しいため、ここではこの三角錐について簡素にお話しします。普賢岳の噴火は約5年に渡って継続し、並行して大規模な防災工事が速やかに進む一方で、多くの人が亡くなった定点周辺の災害現場は二次災害の恐れなどもあり、長らく未整備のまま手付かずの状態で放置されたままでした。人災の側面も強かった本災害では、関係する遺族の方々の間に隔たった複雑な心情があった事も否めません。災害発生から10年の年月を経た2001年になって、現場を示す目印として初めてこちらの白い三角錐が設置されました。三角錐の標柱は敢えて木で作られた簡素なもので、老朽化で10年ごとに建て替える必要があり、現在は既に三代目となっています。これは一般的な石造の記念碑などと違って、定期的に維持保存するための作業が発生する事で、災害の記憶を風化させずに残していくという役目を果たしています。この在り方はちょうど日本の神社における式年遷宮という慣わしを連想させます。伊勢神宮は20年という間隔で建て替えられる事で、古代からその伝統と技術を脈々と継承してきました。同じ様に、この三角錐が朽ち果てて埋もれる事なく、ここに在り続ける限り、災害の貴重な教訓もまた新たに後世へと末長く引き継がれて行くことでしょう。その様になることを切に願っています。標柱の設置後に、他の災害遺構も順次整備されて行きましたが、定点周辺だけは長い間三角錐が立つのみでした。周囲に野晒しのまま埋もれていた報道機関の車やタクシー等は、悠に30年を経た2021年3月になってからようやく掘り起こされて、標識や記念碑と共に災害遺構として整備安置される事になります。この時、三角錐も遺構近くの現在の場所へと移動されました。同年7月には島原市の防災ジオツアーが開催され、これに参加することで初めて一般の人が定点を訪れる事も出来るようになりました。遺構の整備までにこれだけ長い時間を要したという事実は、残された遺族や組織の方々の心労と悲嘆が、どれほど大きく深かったかを物語っているように思います。なお遺構整備の際の調査で、6/3に定点を襲った火災サージには少なくとも2回の波があった事、2回目の波は車が距離にして60m高さ10m余りも吹き飛ばされる程の爆風であった事などが分かってきました。また5日後の6/8に発生した火砕流は、火口から2.7kmの地点で時速270km、温度200℃〜350℃に達し、放出された総エネルギーは、爆風の熱量を測定するブラストメーターによ って、おおよそ50TJ(テラジュール)と推定されており、これは広島型原爆0.8個分に相当する膨大な熱量であった事などが分かっています。改めて亡くなられた方々のご冥福をお祈りすると共に、ご遺族の方々に心よりお悔やみ申し上げます。出典:雲仙岳災害記念館、平成新山ネイチャーセンター、国土交通省、気象庁。
島原半島ユネスコ世界ジオパークに登録されている、雲仙普賢岳大火砕流で被災した災害遺構を巡る防災ジオツアーに参加した。1991年6月3日に発生した大火砕流で43名の尊い命が失われた事は、31年過ぎた今も脳裏にハッキリと焼き付いている。定点と呼ばれる本来の場所より、少し左側を降りた場所付近であり、今は草木に覆われて想像出来ないが、普賢岳を正面に見る最適のアングルである事は、そこに立てばよくわかる。地元の消防団員12名、一般の方6名、火山研究者3名、長崎県警察官2名、タクシー運転手4名、報道陣16名が内訳だが、その背景におられた家族の方々も悲劇に巻き込んでしまう。仰ぎ見る普賢岳は、今日も畏怖の姿を大きな姿で見せていた。私も31年前にこちら島原で撮影に関わる仕事で頻繁に来訪していたが、直接普賢岳に関わる仕事ではなかったが、島原に滞在中火砕流が発生すると市内のサイレンが鳴り響く。街には、常に緊張感があり降灰があれば、街並みもどんよりとした光景だったが、島原から離れて1週間後にこの大火砕流が発生した。また、直接の関係は短期間だったが、この火砕流で亡くなった方1人と仕事をさせて頂いた事もあり、慰霊碑に刻んである名前を見た時、あの時若造だった私を叱咤激励してもらった方を思い出し、31年前に戻った感覚だった。ここは、通常立入禁止であり慰霊の場所でもある為、興味本位だけで行く事は、厳に慎まなければならない。その当時の、この地で暮らした方々の生活の歴史があり、また生活記憶が残る場所。そして、多数の方々が亡くなった場所でもある。自然の力の素晴らしさ、大きさ、凄さ、怖さを知る場所としては、学ぶものは多々ある。これを機に、報道陣の取材姿勢に安全と法令遵守を高める流れがあり、今の報道コンプライアンスの一つともなっている。合掌。
家族で初めて来ました。凄い怖いです。
たどり着けませんでした。基本整備されていないようですので、観光で訪れるような場所ではない感じです。慰霊の場所というより、忌まわしき記憶の場所という印象を受けました。まあマスコミが頑として避難しなかったせいで、地元の人たちも巻き添えで亡くなってしまったわけですからね・・・近くの道から手をあわせるにとどめました。
30年前と言いながら、昨日の事のように覚えていますし思い出します。被害にあわれた方のご冥福をお祈りするとともにこれから先雲仙普賢岳噴火災害があった事を後世に伝えていく場所として元上木場農業研修跡地と一緒に定点が整備された事は大変良かったと思います。
雲仙普賢岳噴火災害を後世に伝える貴重な場所です。普段は立ち入り禁止の場所なので行くことができません。
1991年6月3日に発生した雲仙普賢岳火砕流の報道関係者撮影スポットであり、多くの犠牲者を出した通称「定点」。現在はアクセスが厳しく、島原まゆやまロードから軽自動車1台がやっと通れる小さな脇道に入り、ヤブ草がガンガン当たり車体に傷を付けつつ噴石転がる自然と一体化しつつあり分岐した道をグーグルマップ最大化しながら注意深く進まないといけません。少し気を抜くと崖下に落下しそうでした。定点地跡のオブジェ自体は見えても、工事や凍結で寸前通行止だったりも。万全を期すならまゆやまロード途中の駐車スポットから徒歩で向かうしかありません。見晴らし開けた時の火砕流跡風景には絶句。不気味な静かさをたたえる普賢岳から風が吹きおろし、人間以上の大きさがある噴石がゴロゴロ転がるなか、麓から徐々に砂防工事が進行しています。
| 名前 |
定点三角錐 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP | |
| 評価 |
4.3 |
| 住所 |
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亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。