壮大な石垣と可愛らしい天守。
丸亀城の特徴
日本100名城の一つとして、歴史的価値が高い丸亀城です。
丸亀城横にある資料館では、重要美術品の刀剣ニッカリ青江が展示されています。
丸亀城を訪れることで、貴重な文化遺産に触れる素晴らしい体験ができます。
丸亀城に行ってきて、歴史の深さと美しい景観に感動しました。現存する木造天守を持つ貴重な城で、立派な石垣は高さや美しさが印象に残りました。城へ登る道のりは少し大変でしたが、天守から見える丸亀市街や瀬戸内の景色は素晴らしく、達成感を味わうことができました。長い年月を経ても大切に保存されている姿から、地域の人々の城への思いを感じました。実際に訪れることで、歴史の魅力をより身近に感じることができました。
R8-5月5日丸亀城🏯には以前から行ってみたく、今回ツーリング🛵🏍️で行った。テレビや雑誌等で見ていたが、小ぶりな城ながら、立派な石垣が圧巻で見応えある。石積みの高さや、斜に積まれた石垣。天守迄の道のりは歩きやすいけどちょい勾配がキツめ。見晴らしは良く瀬戸内海、瀬戸大橋、飯野山(讃岐富士)、讃岐平野が綺麗に見える。今回は新緑の時期で緑が綺麗だったけど、桜🌸の時期や紅葉🍁の時期等いろんな季節にまた訪れてみたい、
日本一の高さと言われる石垣は下から見上げると迫力がありますそして日本一小さいと言われる現存天守は可愛らしいです日本一が2つ一緒に見られるのはいいですね天守までは結構な坂道を登ります地元の高校の野球部と陸上部が坂道ダッシュしていたぐらいしんどい坂道です笑頂上まで登ると海まで見渡せる景色が広がります1時間まで無料の市営駐車場があるということですが、お堀沿いの道路の一部は土日祝は路駐可能だったのでそちらに駐めましたバス停の前後10メートルは駐車禁止なので気をつけましょう。
天守閣は大きくなく、というか、むしろ小さいです。ただ、全国に12ある現存天守の1つなので貴重なお城です。それと、下から見上げる姿は圧巻でした。
大手門から見える石垣はもちろんですが、搦手門側から見える野面積みの石垣も素晴らしいので、お忘れないようにしてください。見どころが多すぎるので、時間を準備して臨んでください!
26.1.8 💰400円日本の現存12天守を巡っている中で訪れました🏯(御城印に日付を入れてくれないタイプ)最初に上がる坂道は通称「見返り坂」とも呼ばれていて勾配がキツめで長い坂がありました年配の方は日々のトレーニングなのか坂道を往復されています⛰️🏯⛰️🚶ここは石垣も美しいので楽しみながら上がったお城でした😊お城の中に入ると規模が小さいだけにガッカリしてしまう方もいるかも🤔景色はいいので100名城や現存天守を回る方は来られると思うので訪れて欲しいですね🏯以前(多分10年以上前?)夜に通った時にライトアップしてのは遠目に見たことがあって今でもライトはおいてあったので季節によって時間は異なると思いますがライトアップはしてると思います✨あの山の上でライトアップされててずっと来たいって思ってたお城にやっと来れて感動しました☺️
素晴らしいお城でした。現存する貴重な建物であり、遠くから眺めても素晴らしく、近くで見ても同様でした。石垣の素晴らしさもあり、本当にきて良かったです。これを現代まで維持管理してきてくれた方々に感謝です。石垣が復旧したら是非また伺いたいです。
丸亀城、すごいですね。こんなに高い石垣には登った事がありません。私は伊賀上野城にも行きましたが、その2倍以上の高さを感じます。津山城も石垣は高かったですがここには及びません。城下の通りに着いた時から高く積み上げられた石垣に圧倒されました。本当に、見上げるほどのお城です。地元の部活動の中学生たちがこのお城の坂道を使って走り込みをしている程です。登り切ったら讃岐富士・瀬戸内海・瀬戸大橋と見どころが各方位にあります。
天守以外はわんこOK現存天守閣のお城。天守以外は無料の市民の憩いの場所だなとそれだけでも素晴らしい。立派な石垣に季節によっては紅葉が映えて綺麗です。下から見るほうが景観はいいかな。御城印はお土産ショップで購入出来ると記載あるサイトがありますが、実際は天守のみの販売です。
| 名前 |
丸亀城 |
|---|---|
| ジャンル |
/ / |
| 電話番号 |
0877-25-3881 |
| 営業時間 |
[日月火水木金土] 9:00~16:00 |
| HP | |
| 評価 |
4.2 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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丸亀城は、香川県丸亀市の中心部にある標高約66mの亀山を中心に築かれた平山城です。別名を亀山城ともいい、東西約540m、南北約460mに及ぶ城域を持ち、内堀以内の約20万4,756㎡が国の史跡に指定されています。日本100名城にも選ばれており、何層にも積み上げられた高石垣と、江戸時代から残る天守が大きな特徴です。特に石垣は「日本一高い石垣の城」として知られ、内堀から本丸まで約60mの高低差を、三の丸・二の丸・本丸と段状に築かれた石垣によって見せています。一方、山頂に残る天守は現存12天守の一つで、現存天守としては日本一小さい天守ともいわれています。丸亀城は、北を大手、南を搦手とする縄張りで、山頂に本丸を置き、その東側に一段低い二の丸、さらに一段低く山腹を取り巻くように三の丸が配置されています。また、東南隅から南面、西南にかけては腰曲輪が連なり、城の中枢部を内堀が取り囲み、北正面に大手門が開かれていました。一方、藩主の居館は天守ではなく、西麓の山下曲輪に設けられていました。このように、山頂の天守だけを見るのではなく、亀山全体を利用して曲輪や石垣を段状に配置した立体的な縄張りが、丸亀城の大きな特徴です。丸亀城の築城が始まる以前、この亀山には、古くは宇多津城主・奈良氏が城砦を構えたと伝えられています。これは丸亀城の築城以前から、この場所が城を築くのに適した場所として利用されていたことを示す伝承です。本格的な丸亀城の築城が始まるのは、生駒氏の時代からになります。丸亀城の築城が始まったのは、豊臣秀吉の家臣として四国平定にも関わった生駒親正と、その子・一正の時代である慶長2年(1597)です。生駒親正は天正15年(1587)に讃岐へ移され、亀山を利用して築城を進め、約5年をかけて慶長7年(1602)頃に完成したとされています。慶長7年(1602)には一正が高松城へ移り、丸亀城は高松城の支城となりました。城下町の整備も同時に進められ、慶長6年(1601)には宇多津から人々を移住させるなど、丸亀城を中心とした新たな町づくりが行われました。この時代の丸亀城は、現在とは異なる縄張りを持っていたことが、残された絵図や発掘調査などから分かっています。しかし、江戸時代に入ると城の運命は大きく変わります。元和元年(1615)に江戸幕府が一国一城令を出すと、讃岐では高松城が残され、丸亀城は廃城となりました。築城からわずか20年足らずで役割を失ったことになります。ところが、丸亀城はその後再び歴史の表舞台に戻ります。寛永18年(1641)に播磨龍野から讃岐丸亀へ移った山崎家治が入り、正保2年(1645)には幕府から築城の許可を得て、城の再築に取りかかりました。この時代の城の姿を伝える「正保城絵図」も残されており、山頂部の本丸・二の丸などは、現在の丸亀城に近い配置となっています。その後、明暦3年(1657)に山崎氏が断絶すると、万治元年(1658)に京極高和が丸亀藩主となり、城の整備をさらに進めました。そして万治3年(1660)、山上の天守が完成したとされています。こうして生駒氏による築城を起点とし、一国一城令による廃城、山崎氏による再築を経て、京極氏の時代に現在へつながる城の姿が整えられていきました。丸亀城を訪れてまず目に入るのが、大手門から山上へ向かって続く急坂と、その両側を固める巨大な石垣です。大手一の門は櫓門、大手二の門は高麗門で、いずれも江戸時代の姿を伝える貴重な建造物です。大手一の門は寛文10年(1670)頃に建てられ、かつては門内で時刻を知らせる太鼓が打たれたことから「太鼓門」とも呼ばれています。現在も時太鼓が復活しており、正午には太鼓の音を聞くことができます。大手門を抜けると、山上へ向かう「見返り坂」が現れます。その名の通り、あまりの急坂に思わず振り返ってしまうことから名付けられたと伝えられ、ここから始まる登城道は、丸亀城の険しさを体感できる場所です。見返り坂を上るにつれて、丸亀城最大の特徴である石垣が迫ってきます。三の丸北側などの石垣は高さ20mを超え、上へ行くほど反り返る「扇の勾配」と呼ばれる美しい曲線を描いています。石垣の角には長方形の石を交互に組み合わせる算木積みが見られ、石の大きさや積み方にも、長い年月をかけて築き上げられた城郭技術の特徴が表れています。石垣には野面積み、打ち込みハギ、切り込みハギなど異なる技法も確認でき、時代による築造技術の違いを観察できる点も興味深いところです。本丸西側には、石垣の膨らみを補強するために築かれた「ハバキ石垣」や「サヤ石垣」と呼ばれる構造も残されており、丸亀城の石垣が単に高いだけではなく、長期にわたって安定させるための工夫を重ねて築かれたことが分かります。石垣の途中には二の丸があり、ここには丸亀城を代表する遺構の一つである二の丸井戸が残っています。現在確認できる深さは約30mですが、江戸時代の絵図には「三十六間」と記されており、約65mもの深さがあったと考えられています。深さについては「日本一深い井戸」と紹介されることもありますが、城内の井戸として極めて深いことが特徴です。高い石垣の上にさらに深い井戸を設けたことからも、籠城を想定して水を確保することが城の防衛にとってどれほど重要だったかがうかがえます。二の丸からさらに上ると本丸に達し、そこからは讃岐平野や瀬戸内海を望むことができます。山頂の本丸に建つ天守は、丸亀城を象徴する建物です。三重三階、高さ約15mの木造建築で、規模は小さいものの、唐破風と千鳥破風を組み合わせた外観には端正な美しさがあります。壁には敵を攻撃するための狭間や、石を落として侵入者を防ぐ石落としが設けられ、天守が単なる権威の象徴ではなく、防御施設としての役割も担っていたことが分かります。さらに、天守の壁内からは「万治三年」の年紀が記された祈祷札が見つかっており、万治3年(1660)に完成したとされる天守の年代を裏付ける貴重な資料となっています。現存12天守の中でも江戸時代初期の木造天守を間近に見ることができる、全国的にも貴重な建物です。丸亀城には天守だけでなく、かつては11基の櫓が配置され、櫓と櫓を渡櫓でつないだ大規模な城郭が築かれていました。しかし明治維新後になると城の建物は次第に失われ、明治2年(1869)には城内の御殿から出火し、御殿と戌亥櫓が焼失しました。その火災の痕跡は、今も三の丸の石垣に残されています。石垣の一部には火災の熱を受けて赤く変色した花崗岩が見られ、400年近い城の歴史を、石そのものから感じ取ることができます。その後、明治時代の廃城に伴って多くの櫓や渡櫓、御殿などが取り壊され、丸亀城には天守や大手門など限られた建造物と、石垣・曲輪・櫓跡などの遺構が残されることになりました。こうして残された丸亀城は、昭和28年(1953)3月31日に国の史跡に指定され、その後も保存整備が続けられています。文化庁の「国指定文化財等データベース」では「史跡名勝天然記念物」に分類され、丸亀城跡は史跡として登録されています。また、山頂に残る天守と、大手口に建つ大手一の門・大手二の門は、いずれも国の重要文化財に指定されています。石垣や曲輪などの城郭遺構とともに、江戸時代の丸亀城の姿を今に伝える貴重な文化財です。特に大きな転機となったのが平成30年(2018)の豪雨や台風です。帯曲輪南面・西面や三の丸坤櫓跡付近などで石垣が相次いで崩落し、なかでも三の丸坤櫓跡付近では、高さ約31mに及ぶ石垣が大きく崩れました。調査によって、この石垣が丸亀城を象徴する巨大な石垣の一つであることが改めて確認され、復旧には高度な技術と長い年月が必要となっています。現在進められている石垣の復旧事業では、崩落した石材をできる限り元の位置に戻すとともに、必要に応じて新しい石材を補いながら、伝統的な石垣の姿を取り戻すことが目指されています。当初より工事費や工期が増え、復旧完了は令和12年度(2030年度)が目標とされています。長大で高い石垣を一つずつ解体・調査し、再び積み直す作業は容易ではありませんが、これは単なる修理ではなく、丸亀城を特徴づける景観そのものを未来へ残すための事業でもあります。さらに丸亀市では、明治以降に失われた櫓や渡櫓、御殿などの姿を明らかにするため、古写真や古資料の収集も進めています。写真に写った建物の位置や形状、石垣との関係などを詳しく調べることで、将来的な復元整備につなげようとする取り組みです。つまり丸亀城は、残されたものを保存するだけでなく、失われた城の姿を歴史資料から再び浮かび上がらせながら、次の時代へ受け渡そうとしている城でもあります。丸亀城を歩くと、最初に目にする巨大な石垣、大手門から続く急な見返り坂、幾重にも重なる曲輪、深い二の丸井戸、そして山頂に残る天守へと、城の歴史が一つの道筋としてつながっていきます。生駒氏による築城から、一国一城令による廃城、山崎氏による再築、京極氏による天守完成、明治以降の建物の喪失、そして平成の石垣崩落と復旧へ――400年以上にわたる歴史が、石垣や門、井戸、天守という実物の遺構に刻まれています。特に、見上げるほど高く積み上げられた石垣を一歩ずつ上り、その先で高さ約15mの天守を見上げると、「日本一高い石垣の城」と「日本一小さい現存天守ともいわれる城」という二つの個性が、単なる数字ではなく、一つの景観として結びついていることに気づかされます。壮大な石垣が城の力強さを示し、その頂に残る小さく端正な天守が城の歴史を静かに伝える――その対照が見事に調和していることこそ、丸亀城を実際に歩いてこそ味わえる大きな魅力といえるでしょう。