牟佐坐神社で味わう、甘酒と歴史。
牟佐坐神社の特徴
正面の急な階段と緩やかな階段が印象的です。
牟佐坐神社は孝元天皇を祀る神社です。
雷神を祀った身狭村主の由緒ある場所です。
牟佐坐神社は奈良県橿原市見瀬町に鎮座する式内大社で、安康天皇のころ渡来人・身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりにゃん。御祭神は高皇産霊神と孝元天皇で、壬申の乱では大海人皇子(のちの天武天皇)を守護した神として登場するにゃん🐾。社叢や鳥居、拝殿は今も清浄に保たれ、歴史と自然が調和する霊験あらたかな神社にゃん✨🏯 由緒と歴史- 創建は安康天皇のころ(5世紀中頃)、渡来人・身狭村主青が霊夢を受けて生雷神を祀ったのが始まりにゃん。- 「牟佐」は東漢氏の本拠地で、渡来文化と深く結びついた土地にゃん。- 壬申の乱(672年)では牟佐社の神が大海人皇子を守護したと『日本書紀』に記されてるにゃん。- 延喜式神名帳にも載る大社で、月次祭・新嘗祭の奉幣を受ける格式ある神社にゃん🐾。🌸 御祭神と御神徳- 高皇産霊神は天地創造の神で、生成・繁栄を司るにゃん。- 孝元天皇は第8代天皇で、皇統の安泰を象徴するにゃん。- 生霊神・生雷神は雷や霊力を司り、戦勝・守護の御神徳を持つにゃんこ✨。✨ 素晴らしさ- 古代史と深く結びつき、壬申の乱で天武天皇を守護した神として登場するにゃん。- 渡来文化との融合を示す神社で、古代渡来人の信仰と技術の痕跡を伝えるにゃん。- 社叢はこんもり茂り、鳥居前の桜が春には壮観にゃん🌸。- 延喜式に名を残す大社で、古代から続く格式と霊験を今に伝えるにゃん🐾。📝 まとめまとめにゃん:牟佐坐神社は渡来人の信仰に始まり、壬申の乱で天武天皇を守護した歴史を持つ式内大社にゃん。御祭神は高皇産霊神と孝元天皇で、生成・繁栄・皇統安泰を象徴するにゃん。境内は自然豊かで、桜や社叢が歴史の重みと美しさを伝え、奈良の古代史を体感できる名社にゃん✨
牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)。奈良県橿原市。式内社(大)、旧社格は村社。資料によると、創始は安康天皇の時代に、渡来人の身狭村主青が生雷神を祀ったのが始まりとされている。 身狭(=牟佐)は大和国高市郡の地名で、阿知使主が率いて帰化した東漢氏の本拠地とされている。身狭村主青は倭の五王の一人とされている雄略天皇の寵臣で、『日本書紀』は雄略天皇8年(464年)と雄略天皇12年(468年)に呉の国(宋)に派遣されたと記す。しかし、この遣使の記事は「宋書」には記述されていない。『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事代主神と身狭社に居る生霊神」が神懸りし、「神日本磐余彦天皇の陵に馬及び種々の兵器を奉れ」と言い、そうすれば大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。その結果、大海人皇子の即位後、身狭坐生霊神に史上初となる神位が授けられている。とあります。主祭神:高皇産霊神、孝元天皇。古来の祭神の比定としては以下の記述がある。・生霊神(『日本書紀』)・生雷神(『五郡神社記』)
いつも車で横を通るときに気になっていた。先日、お祭りのようなものをやっていたので寄ってみた。普通の神社だと思っていたところ、実は、壬申の役に関わる由緒があった。(以下引用一部改変)『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅(シャーマンみたいな人)に「高市社に居る事代主神と身狭社に居る生霊神」が神懸りし、「神日本磐余彦天皇の陵に馬及び種々の兵器を奉れ」と言い、そうすれば大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。その結果、大海人皇子の即位後、身狭坐生霊神に史上初となる神位が授けられている。(引用終わり)百人一首の絵があるとかなんとか(忘れた)。
正面の急な階段と向かって右側の緩やかな階段がありました。
「畝傍の道」巻一の二の十一 橿原市見瀬町718牟佐坐神社(むさにますじんじゃ)万葉歌碑《橿原市観光政策課/橿原の万葉歌碑めぐり 平成31年3月発行》神社に向かって左手、二柱の摂社に隠れるようにして万葉歌碑があります。柿本人麻呂は生涯二人の妻を愛しており、そのどちらも亡くしたときに長歌を詠んでいます。ここにあるのはその一つ、隠り妻に先立たれて「泣血哀慟」して詠んだ歌です。・・・・・我が恋ふる 千重(ちへ)の一重(ひとへ)も 慰(なぐさ)もる心もありやと 我妹子が やまず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず 玉鉾(たまほこ)の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる。あなたを失って、普通にすます気にはとてもなれないので、この恋しさの千に一つも紛れることもあろうかと、妻がしょっちゅう出て見た軽の辺りに出かけて行って、じっと耳を澄ましても、妻の声はおろか畝傍の山でいつも鳴いている鳥の声さえ聞こえず、道行く人にも一人として妻に似た者はいないので、もうどうしてよいかわからず、妻の名を呼び求め, ただひたすらに袖を振り続けた。柿本人麻呂 巻2‐207この万葉歌碑がこちらにあるのは、彼が妻の死に際して泣き崩れて呆然と歩き回ったところが、このすぐそばの「軽」というところだからです。(諸説あり;軽の杜という資料も)今では橿原市大軽町、岡寺駅北東の丸山古墳の辺りです。この地域は万葉ウォーキングとしては橿原市に属するので畝傍・築坂から足を延ばしましたが、時間ロスが多いので、岡寺・飛鳥周遊ルートに組み込んだ方がいいと思います。その際は、「益田岩船(ますだのいわふね)」の散策もお忘れなく。畝傍山のコース(巻一)から立ち寄られた方は、ここからただひたすらに川沿いを北に散策、巨勢山座岩椋神社に向かいます。途中川沿いをいったん元の道に戻るタイミングをお間違いなく。画像の橋をくぐった後に上にでてください。
輕の堺原の宮跡(牟佐坐神社)オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになつて天下をお治めなさいました。
第8代孝元天皇の軽境原宮があったとされています。「かるのさかいはらのみや」と読みます。岡寺駅北の踏切のすぐ東側に牟佐坐神社石柱と孝元天皇軽境原宮伝承地の石碑があります。牟佐坐神社は牟佐坐(むさにいます、むさにます)と読みます。このあたりは見瀬(みせ)町で、見瀬は牟佐の転訛とされます。長い歴史の中で言葉が訛り、いつの間にか見瀬という地名が生まれたようです。ここからすぐ北東に見瀬丸山古墳という日本でもトップクラスの巨大な古墳もあります。後円部以外は古墳の上まで登れます。牟佐坐神社の御祭神は、高皇産霊命と孝元天皇です。菅原道真を祀っていた時期もあり様々な変遷を経て現代に至ります。孝元天皇は記紀に事績がなく、いわゆる欠史八代と言われその実在性に疑問が投げかけられています。
むさにます神社[安康天皇の頃に渡来人「身狭村主青むさのすぐりあお」が雷神を祀ったのが始まりとされます]檜前(ひのくま)に住んだ、身狭(むさ)地域の村主(すぐり)である「青」は学者で、天の寵愛を受けた。身狭地域には、高句麗系百済人の「史戸(ふみとべ)」の「身狭氏」が定着し、生霊神(いくたまの神)を祀る「牟佐坐(むさにいます)神社」もあり、韓人「大身狭屯倉(おおむさみあけ)」と高麗人「小身狭屯倉(こむさみあけ)」があり、大和中央政権の直接支配下にあった。@房総風雅史p97
| 名前 |
牟佐坐神社 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 電話番号 |
0744-54-2071 |
| HP |
http://www.jinja-net.jp/jinjacho-nara/jsearch3nara.php?jinjya=34152 |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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正面の階段はかなり急な角度で足腰弱い方は右奥にスロープがあるのでそちらかた上がってください正月開けのえびす祭りでは甘酒、ぜんざいの振る舞いがあるので宮司さんのご祈祷にお賽銭を入れてからお上がりください。