高野街道を通過して、ひなびた紀辻の魅力を感じよう!
木の辻の特徴
ひなびた雰囲気が魅力の場所です。
昔、高野街道の重要な通過点でした。
紀辻とも呼ばれる歴史的な交差点です。
紀辻とも呼ばれる。土佐街道と、紀州街道との分岐点。天誅組の吉村虎太郎が高取城への夜襲を敢行しようとした時にこの場所で高取藩士と遭遇。1対1で優勢であったが味方の十津川郷士の放った銃弾により負傷。撤退を余儀なくされる。
高野街道の重要な交差点ひなびていますが、昔はここを通過して高野山に行きました。
名前 |
木の辻 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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司馬遼太郎の『おお、大砲』の題材となった、文久三年(1863年)の天誅組と高取藩による高取城攻防戦があった場所です。ここが木の辻であると示す物は何もありません。文久三年(1863年)八月二十六日、高取藩は高取町役場のある高台に大砲を据え布陣。天誅組勢がここに差し掛かったところへ大砲を撃ちかけ開戦しました。天誅組勢は、重阪峠(御所市大字重阪)〜戸毛村(御所市大字戸毛)〜木の辻(高取町大字薩摩)と、進軍してきました。主将の中山忠光は兵力差から高取藩を侮っていたため、「一旦兵を休め、敵情を探ったほうがいい」という進言に耳を傾けることもなく、ほとんど休むことなく進軍しました。偵察を出すこともなく、菊の御紋の入った旌と、「七生賊滅天後照覧」と大書された旗を先頭に掲げ、二列縦隊で進軍します。対する高取藩兵は総勢約260名。地の利があるとはいえ、約1000名の天誅組勢とは兵力差は歴然。高取藩の頼みの綱と言えるのは鉄砲と、大坂の陣で使われた後に高取藩主植村家に下賜された、大昔の遺物である「ブリキトース」と呼ばれる大砲。大阪の陣から二百五十年間、神君家康公から賜った大砲として神格化され、大切に磨かれ、実射訓練さえもされていなかった代物です。高取藩は、城代家老中谷栄次郎の指揮のもと、賜った6門の大砲のうち4門を陣地に据え、要所には兵員を配置して天誅組の侵攻を待ち構えます。文久三年(1863)八月二十六日の早朝。天誅組の先陣が木の辻に差し掛かったところへ、ここに据えてあった大砲が火を吹き、開戦。大砲は照準が狂っていたのか、命中することはありませんでしたが、天誅組の兵たちを驚かせるには十分でした。天誅組の兵たちのほとんどは十津川から半ば強制的に急遽集められた、寄せ集めの烏合の衆でした。士気もそこまで高くなく、ほとんど訓練も受けておらず、行軍の疲れなどもあり、いざ開戦すると大砲に怯んで右往左往する始末。「宮中第一の剛気」と言われていた主将の中山忠光でしたが、指揮能力の無さを露呈し、縦列編制という愚も手伝ってなす術なく敗退。戦い自体はおよそ一時間ほど、高取藩側の圧勝で終わりました。天誅組が用意していた松の木をくり抜いた木砲も不発だったそうです。この戦いで天誅組は多くの死傷者や捕虜を出しましたが、高取藩側は斥候中に捕まり斬首された西島源左衛門がただ一人の犠牲者でした。一方、「郡山藩が出陣する」という噂から別働隊を率いて御所方面へと出ていた吉村虎太郎でしたが、郡山藩兵はおらず杞憂に終わり、手ぶらで本陣へ戻る途中、敗戦して引き揚げてくる本隊と遭遇。敗報を聞いて激昂した虎太郎は、主将中山忠光に詰め寄ります。虎太郎は直ちに決死隊を編制し、夜陰に乗じて高取城を火攻することを決定。二十六日夜、虎太郎は24名の決死隊とともに出撃。夜陰に紛れて高取城下へと迫りますが、木の辻まで来たところで高取藩の斥候で出ていた浦野七兵衛と遭遇。槍で渡り合っていたところを味方の十津川郷士の猟銃による誤射で腰と内股を射抜かれて歩行不能となり、以後は駕籠での移動となりました。この時虎太郎が着ていた“盡忠報國”と書かれた肌襦袢が当時銃創の手当てのため逗留した重阪の西尾家に伝わっており、後年徳富蘇峰が認めた箱書きとともに御所市指定の文化財となっています。