江戸時代の歴史感じる、延命寺の美。
延命寺の特徴
江戸時代将軍も訪れた歴史ある真言宗のお寺です。
区内最古の建長板碑があり、手入れが行き届いています。
キリシタン灯籠のマリア像には特別な意義があります。
江戸時代、将軍も立ち寄った、歴史あるお寺。住職様の対応が丁寧です。
新義真言宗。寺号 見次山 松寿院 延命寺。伝 見次権兵衛 創建。豊島八十八ヶ所霊場第二十二番札所。北豊島三十三ヶ所霊場二十四番札所。創建由来について調べたので,史料情報を幾つかピックアップし,私訳する。①江戸後期 化政年間(1804~1829年)成立の地誌『新編武蔵風土記稿』「延命寺。寺伝によると,往昔 篠田五郎という者が当所に在城の頃,家臣であった見次権兵衛がこの寺の北に居住していた。その後,宅地を捨て,この寺を当地に建立し,自分の氏を山号にしたという。鐘銘にも彼が建立した理由が見える。創建年代不詳※」②江戸後期初頭 天明八年(1788年)正月再鋳銘の延命寺撞鐘(昭和初期上梓『墓碑史蹟研究 第九巻』の翻刻より)「延命寺第十六代であった祐海は,「うちの寺がいつ頃建てられたのかは知らないが,何者かがその家臣である見次氏に命じて,建立した様である」と言った※」③現地梵鐘裏手にある『本堂再建記念之碑』と題打った明治四十三年(1910年)十一月健之銘の石碑「寺史によると,「1524年に,見次権兵衛が息子の権太郎の戦死を悲しんだ。そこで寺を創建して息子の冥福を祈った」とある。この寺こそが延命寺である※」年を経るごとに伝承が詳細になっていくのは気になるところではある。少なくとも,見次なる人物によって創建されたという点では共通している様だ。なお,①の「城」は志村城と考えられる。見次権兵衛の住居は,志村城の北,荒川沿いの沖積平野のいずれかに存在したのだろう。坂下の辺りか。また,③の1524年は,小田原北条氏の一度目の関東攻略戦が開始された時期。この攻略戦によって,渋谷城,江戸城,蕨城,岩槻城などが落城し,当地を支配する扇谷上杉氏は大変な劣勢に置かれた。見次氏は,扇谷上杉勢だったものと思われる。※【新編武蔵風土記稿】……寺傳に據に往昔篠田五郎と云者當所に在城の頃家臣見次権兵衛此寺北に居住す其後宅地を捨てて當寺をここに建立し己が氏を以て山號銘すと云鐘銘にも彼が建立の由見ゆ草創の年代詳ならず……【天明五年 撞鐘 翻刻】延命寺祐海來諗曰我寺不知何代之草創(中略)使家臣見次氏建我寺以供蘋蘩至今……【上記訓読】延命寺(エンメイジ)の祐海 來(キタ)るに,諗(カンガエ)て曰(イワ)く,「我寺(ワガテラ)何代(イツノヨ)の草創(ソウセイ)かを知らず(中略)家臣(カシン)見次氏をして我寺(ワガテラ)を建(タタ)せしむる。以て,蘋蘩(ヒンパン)を供(ソナエ)て,今に至る……【上記私訳】延命寺の祐海が来て,「私の寺がいつ頃建てられたのかを知らない……家来の見次氏に私の寺を建てさせた。そして,蘋蘩を供えて,江戸後期初頭天明年間現在に至った……」とよく考えて言った。【明治四十三年 石碑 翻刻】……寺史曰昔在大永四年見次権兵衛悼其子権太郎戦死創一寺修冥福即此寺也……【上記訓読】……寺史(ジシ)曰(イワ)く,「昔在(オウザイ)大永四年,見次権兵衛,その子権太郎の戦死を悼(イタ)む。一寺を創り,冥福を修める」と。即ち,この寺なり……【上記私訳】……寺史によると,「昔 大永四年(1524年)に,見次権兵衛が,息子 権太郎の戦死を悲しんだ。そこで寺を創建し,(息子の)冥福を祈った」と。つまり,これが延命寺である……
境内は手入れが行き届き、非常にきれいです。
ここはかつて私の弟が通っていた幼稚園が有った場所です。寺になってしまったのが残念です。
ご住職御不在につき、御朱印は次回まで。でもご対応はとても丁寧でした。
ここは昔徳川吉宗が、荒川の方に猟に来たときに、滞在したそうです、
真言宗豊山派のお寺です。豊島八十八ヶ所の札所です。ここも、手書きの御朱印をいただけました。
2017/9/23拝受 真言宗豊山派。緑が美しい境内です。御住職はお優しい方でした。豊島八十八ヶ所霊場第22番札所の御朱印(墨書き 本尊の地蔵菩薩)を頂きました!
静かですが立派なお寺です。
名前 |
延命寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3966-3401 |
住所 |
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評価 |
4.0 |
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真言宗豊山派のお寺。志村城主の家臣見次権兵衛が創建したという。見次の名字なので見次公園あたりを領した武将だったのであろう。境内は広くないが門構えが立派。朝行ったら読経の声が聞こえてきて穏やかな気分になれた。