聖徳太子弟の謎を追え!
塚穴古墳(来目皇子埴生崗上墓)の特徴
聖徳太子の弟の来目皇子に関する古墳です。
一辺約45mの方墳がある貴重な史跡です。
駐車場から山道を歩いて訪れる必要があります。
塚穴古墳はほぼ間違いなく来目皇子のお墓だと言われている。王陵の谷ではないが丘陵上にあり方墳で当初は周囲壕で囲われていたようで立派な古墳。
駐車場沿いに山道があり、少し歩いて拝所に辿り着きます。看板には「用明天皇皇子来目皇子埴生崗上墓(ようめいてんのうおうじくめのみこ はにゅうのおかのえのはか)」と書いてあります。一辺48mの方墳ですが7世紀前半の築造とされ、大きい方といえます。また、この築造時期は来目皇子の死亡年代とも一致しているので、もしかしたら本当に来目皇子の墓は此処なのかも…3方向の堤が高くなっていて、最深で5mの空堀を持っています。
小雨の中、ウォーキングで来訪しました。以前来た時より、きれいに整備されています。到着した時には、雨が上がりました。やはり、何かある。
古墳だらけの羽曳野で、有名な御陵も多い中で聖徳太子の弟の古墳があるとは知りませんでした。バス通りから細い通路を入って突き当りの右側にあります。駐車場はありませんでした。
日本書紀によると、聖徳太子の弟である来目皇子は、九州の筑紫で亡くなったので、土師氏に葬儀を依頼した所、河内埴生岡上に葬ったとされる。江戸時代に、阿闍梨覚峰が実際に石室内部に入り確認した所、内部は横穴式石室が採用されており石棺があったと記録している。その事から方墳である事、横穴式石室が採用されている事、等から日本書紀に記載されている記録と埴生岡と言う場所から考えて、来目皇子の墓の可能性は極めて高いと言えるでしょう。古市古墳群の葬儀社である土師氏に葬儀を依頼した事から、磯長や飛鳥でなく古市古墳群に葬むられたのでしょうか?日本では数少ない被葬者と古墳が一致する一つですね。
探すのに手間取り日が暮れてしまいました。ナビなどで行くと隣の宗教団体の施設に入れられます。一度行けば迷うことはないけどなかなかわかりにくい場所です。車を停めるところもありません。
羽曳野市Webページより「一辺約45mの方墳。第31代用明天皇の皇子で聖徳太子の弟にあたる来目皇子は推古10年(602年)、新羅攻め将軍に任命されたが、遠征の途中に北九州の基地で病のため没し、のちに河内の埴生山に葬られた。」故郷を離れて、戦地に向かう途中で死んでしまうなんて、かわいそうですね。
名前 |
塚穴古墳(来目皇子埴生崗上墓) |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.6 |
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聖徳太子の弟である来目皇子の陵に比定されている大きな方墳です。ですので、墳丘に立ち入る事はできません。古墳の隣にある駐車場は古墳のではありませんので、立ち入らない方が賢明です(迷い込んだだけで警備員の方が飛んできました。あまりの素早さに驚きました。優しく道案内していただきました)。