貴重な一里塚を訪ねて。
西ヶ原一里塚の特徴
七社神社の参道入り口に位置し、訪れる価値のある史跡です。
日光御成道に残る貴重な一里塚が、歴史を物語っています。
江戸時代に造られた一里塚が、江戸の面影を伝えています。
日光御成道の日本橋から2里目にあたる西ヶ原一里塚。国の史跡になっています。一里塚は、江戸時代、旅の道しるべとなったもの。この保存に一役買ったのも渋沢と街の人々でした。道路拡張工事の為、撤去寸前だった一里塚。渋沢たちは塚の周辺600坪の土地を購入し、当時の東京府に寄付。歴史遺産を守りました。
たまたま前を通っていたら明らかに何かの史跡だと思い、立ち止まり案内板を見て一里塚と知り写真に収めました。ここだけ江戸時代の街道にタイムスリップした感が有ります。わざわざ来る程では無いと思いますが、界隈の公園庭園文化施設来た際は必見です。
七社神社入り口。
本郷通りの真ん中にあるので歩道から見ることになります。
一里塚 詳しくは、写真見てください。
国道17号(中山道)の板橋区志村というところに一里塚の表示があるが、そちらは「そこに一里塚があった」というだけで実物は無いんですよね。関東では神奈川県に当時のままの一里塚が残っているそうですけど、こちらの一里塚も原型を留めているようですね。一里塚は、1里という長さを知らしめるのが目的だったそうで、日本に度量法(尺貫法)が中国から伝わった時の1里は300メートルほどだったそうですが、その後に長さが伸びていったらしい。この長さは長過ぎるため、当時の庶民には無用なものだったんですって。徳川家康は、9メートル四方の土の塚に松や欅といった木を植えさせ一つの目印として以外に、街道といっても茶店すらなかった時代だから、雨よけや休憩のために設けたらしい。学校などでは1里は約4キロだと教えていましたが、街道に築かれた一里塚は最初はきちんと1里の長さで築かれたそうですが、すべての街道を幕府が整備したわけではありません。他の大名がそれに倣って街道を整備したが、一里塚の間隔はバラバラだったそうです。一番長いのは伊勢神宮あたりの道で、1里は7キロになっていたそうだ。山間部になると1里は2キロとか3キロになっていたそうで、これは単純に半刻(はんとき又は、はんこくと読む)で歩く距離の目安にしたらしい。ー江戸時代の時間表示は、和時計によるもので、和時計は1日を12で区切ったので一刻は約2時間となる。半刻はその半分だから約1時間を指す。
大正11年3月8日に国指定文化財(史跡)に指定された。江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置を留めており、都内では大変貴重なものである。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになったが、実業家の渋沢栄一などを中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功した。とゆう情報を見て、文化財であるにもかかわらず、交通量の多い道路の真ん中に唐突に立っている理由が分かりました。この付近は渋沢栄一の旧飛鳥山邸があったり、各所に彼にまつわる碑などを見て、彼が活躍したことがうかがえます。
元々あった場所に、原型のまま残っているこの一里塚は、非常に珍しく貴重なものです。
日光御成道(岩槻街道)に置かれた一里塚です。比較的原型をとどめており、周囲の景色に溶け込み、江戸時代の街道の面影をしのぶことができます。
名前 |
西ヶ原一里塚 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-3916-1133 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.7 |
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看板は七社神社の参道入り口にありますが、石碑は道路に挟まれた島中にあります。近くで撮影するのは危険ですね。信号が近いので赤信号のタイミングでならなんとかなりそうですが、それでも歩道ではないので、車道のど真ん中を歩いていくことになります。遠くから眺めましょう。