歴史散歩で踏む、ガラシャあやかり。
越中井 (細川忠興夫人秀林院殉節之遺址)の特徴
明智光秀の娘を持つ、戦国武将の妻が関わる史跡です。
地元の人々が美しく保つ、歴史的な公園が隣接しています。
偶然訪れても楽しめる、歴史深い場所として知られています。
この辺りは大阪の中でも特に歴史散歩が楽しい場所。ここには細川ガラシャの辞世の句の石碑が建っていて、近所には細川忠興の屋敷跡も残っています。戦国時代好きにはたまらない場所です。
★散りぬべき 時知る人と 命捨てし 武家の夫人の 心哀しも新村出博士の由来説明にある「真に婦人の亀鑑たり」に相応しい細川ガラシャ玉子夫人を顕彰する碑です。「大阪高松カテドラル聖マリア大聖堂」の近くにあります。2025年6月9日。
昨日勝龍寺城に行ってさっそく来ました。最近この辺りちょくちょく訪れてたのでびっくりです。色々調べました。1958年秀吉の死後、家康と石田光成との権力闘争の中、光成は大阪にいた諸大名の家族を人質にしようと企み最初の標的に細川屋敷を包囲した。日頃から人質を逃れられない場合拒否して自害するよう夫細川忠興と申し合わせたガラシヤは、それを拒み自害する。1600年関ヶ原の戦いの前日でした。それによって多くの多くの大名が徳川方につくようになった。当時夫忠興と離縁を望んでいたガラシヤは洗礼をうけていたため、それは叶わなかったとのこと。こういった歴史を改めて垣間見て。言葉がでない。1年後の今日はガラシャの墓に訪れました。崇禅寺はとても立派なお寺です。
JR玉造駅から長堀通りを西に進む、空堀町交差点を右折し聖マリア大聖堂を過ぎると正面に見えて来る。関ヶ原の戦いに際して細川ガラシャこと玉子は西軍の人質となる事を拒否し自ら屋敷に火を放ち命を絶った。キリスト教の洗礼を受けていたガラシャは自ら命を断つ事を許されず、家来にその命を断つように命じたとか。父は本能寺の変で有名な明智光秀。夫は細川幽斎の息子忠興。付近にはキリスト教会やミッション系の学校もあり、これもガラシャの影響か?そんな歴史を感じながら直ぐ北の大阪城に上がるのも良い。
目の前の公園も、細川屋敷の敷地内だったのだろうか?良く破壊されずに400年も残っていたものだ。越中井は中央大通から坂道を下りた道の角に位置する。石造りの井戸と地蔵堂、石碑がある。石碑は昭和期に大阪市婦人連合会により建てられたもので、側面にはガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」が刻まれている。越中井の名は細川屋敷の主人である細川忠興が越中守であった事から名付けられた。
関ヶ原の戦いに至る前、石田三成方が大坂に住む大名の妻子を人質に多数工作を計った際、大名細川忠興の妻であるガラシャ夫人がその動きに抗議して自害したことから、越中国の守護であった細川家の屋敷があったことから、こちらの名前が付いています。大坂城からの近さもあり、こちらから南へ向かうと清水谷を越えて真田丸跡にも行けます。豊臣政権から江戸時代への変化を感じることの出来るルートとして、大阪城見物だけでなく、こちらにも足を運ばれることをおすすめします。
散歩の途中で寄りました。いまは静かにたたずんでいますが、明智光秀(ガラシャ夫人は光秀の娘)がNHKの大河ドラマになるようなので、訪れる人が増えるかな。
偶然見つけました、地元の人が掃除されていて美しく保たれています明智光秀の娘で細川忠興の妻、壮絶な最後を遂げた、戦国武将の嫁は覚悟が違いますね。
大阪市にある史跡の一つです。細川忠興の屋敷内に有ったと、伝えられる井戸です。細川ガラシャとして知られる、忠興夫人の終焉の地とされています。大阪城の南の、難波の宮跡の東側にあります。小さな史跡ですので、分かりにくいです。ひっそりと佇んでいますので、なかなか気付かないかもしれません。この史跡が面している南向きの筋は、史跡が点在していますので、そぞろ歩きをしてみるのも、良いかもしれませんね。
| 名前 |
越中井 (細川忠興夫人秀林院殉節之遺址) |
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| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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(2026年1月19日撮影)戦国武将細川忠興の正室であった細川ガラシャ(お玉)が住んでいたと言われる屋敷跡に残る井戸です。父、明智光秀が起こした本能寺の変によって苦難の人生を歩み、豊臣秀吉の没後、徳川家康に敵対する石田三成からの人質要求に対して、この屋敷で最期を遂げることによりその要求を拒んだ悲運の女性として知られています。