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名前 |
早出薬師堂 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
薬師瑠璃光如来を祀る堂宇で、通称「早出のお薬師様」。元々細島村(現在の中区細島町)の吟京和尚が薬師如来を祀っていた処、寛文年間(1661~1673年)頃、目を患ってしまい祀る事ができなくなった為、早出村で祀る事になったのだそう。元禄16年(1703年)に書かれた古文書には「薬師堂二間四面無住村人総支配」と記されているそうですので、堂宇は現在の物よりも大きかったようです。第二次大戦後は物不足等も影響し、堂宇は朽壊し、境内は荒廃しました。状況を憂えた町内有志の呼び掛けで、浄財に因り昭和59年(1984年)に現在の姿に再建されました。堂宇左側には真言が書かれており、これを見ると薬師如来のみならず、釈迦如来・虚空蔵菩薩・地蔵菩薩も合祀されているようです。境内右手(北)には虚空蔵菩薩像。明治35年(1902年)、百里園が宮内省御料局(皇室財産を管理する国の役所)に請願(売却)される案が持ち上がり、曳馬村(現在の中区曳馬町)の中村太郎三郎氏を筆頭とする計7人が私債を発行して静岡農工銀行より借入金を得て、明治39年(1906年)に百里園主横田保氏より百里園を買い取りました。これを記念して明治41年(1908年)4月に建立されたのが当菩薩像です。像の隣には詳細な由来の書かれた「虚空蔵菩薩建立之由来」碑も併せて建立されています。三方原町の三方原神社には、当菩薩像同様に百里園の購入を記念して昭和2年(1927年)に萬世不朽碑(三方原開拓の碑)が建立されていますので、そちらも併せて訪問する事をお勧めします。尚、中村太郎三郎氏は浜名郡曳馬村三方原村組合村長、及び静岡県浜名郡曳馬村外三十三ヶ町村長総代を務めた人物です。境内左手奥(南西)には地獄絵図。昭和15年(1940年)頃、篠ヶ瀬村(現在の東区篠ヶ瀬町)の鈴木白華氏の作。絵画と木像とで構成されており、稀覯の仏教文化財です。無住の堂宇でこのような素晴らしい文化財が無料で拝見できるのは、本当に貴重です。境内左手中程(南)には日露戦争の祈念碑・戦歿忠魂碑。合掌。境内左手手前(南東)には明治時代後期の大口寄附者の顕彰碑。「寄附者當所 川井市太郎 金壱百圎也 八幡宮 薬師如来 基本財産」と刻まれています。初任給や物価等から推察するに、当時の寄附金額100円は現在の2,000,000円程度の価値だったと思います。境内左手出入り口脇(東)には安間木潤氏の句碑。正面には「八十二翁 木潤 天地や實耳 相生能松能聲」、背面には「明治四十一年五月建之」と寄附者顕彰碑と同一人物1人の名が刻まれています。異体仮名・旧字を現用仮名・新字に直すと「天地(あめつち)や実(げ)に 相生(あいおい)の松の声」です。コンクリートで罅割れが補修されており、文字が摩滅している事も相俟って、少々判読しづらいです。虚空蔵菩薩像建立の僅か1箇月後の建立です。82歳を迎えたご自身の長寿を祝った句です。彼は文政10年(1827年)6月15日生まれですので、数え年なら明治41年(1908年)元日、満年齢なら明治42年(1909年)6月15日のいずれかに詠んだのでしょう。詠まれている「相生の松」とは、当薬師堂の西に生えていた松の事です。黒松と赤松とが根元を一つにして同所に生えており、縁結び・夫婦和合・長寿を象徴する縁起物として親しまれていたそうですが、昭和46年(1971年)頃に枯れてしまったそうです。蛇足ですが、安間木潤氏は、天王村(現在の東区天王町)の竹原勝平氏の次男として生まれ、諱は臺(うてな)。弘化2年(1845年)に安間村(現在の東区安間町)庄屋・安間新田村(現在の東区安新町)名主を務めた安間家の養子に入っています。安間新田村で稲荷神社の神主を務めたと伝わりますが、令和5年現在、安新町近辺には稲荷社は見当たりませんので、どこの神社だったんでしょう。(;´・ω・`)安政6年(1859年)には黙養庵烏谷氏の門下となり、俳号は富月庵木潤。烏谷氏没後は遺言から摩訶庵蒼山氏の門下となり、久米甘谷氏・小池古心氏と並び蒼山門の三傑と称された俳人です。境内右手手前(北東)には西国三十三所観音像。明治初期頃に造立されたと考えられているそうです。建屋の左端には撫で仏として有名なおびんずる様(賓頭盧尊者)の像も祀られています。撫でられるように、そこだけ格子が開けられています。軒下には、かつての薬師堂の物と思われる太い梁が2本保管されていました。道路に出て北東隅には「早出學校跡」標柱。南東隅には前浜松市長、栗原勝氏揮毫の「早出学校之跡」碑。早出学校は、明治7年(1874年)に昌林山玉伝寺の敷地を借りて授業が開始され、明治9年(1876年)に創建された学校です。現在の曳馬小学校・上島小学校の前身となりました。当地に学校が存在した事を偲ばせる遺構等は何も残されてはいません。境内は決して広くはありませんが、見所が凝縮されており、予想よりも楽しめました。反面、全体的に案内板・説明板が足りないように感じます。特に木潤氏句碑は、或る程度草書に慣れた人ならばギリギリ読めますが、一般人には「八十二」と「松」程度しか読めないと思います。(;´ω`)