名前 |
吉田宿 東惣門跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
吉田宿は吉田川(現豊川)の水運を活かして東海道ができる前の鎌倉時代から賑わった。天保14年(1843年)には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠65軒、戸数1293軒、人口は男2505人・女2772人、合計5277人の大きな宿場町だった。町並は23町30間(約2.6km)もあったが、その東入口(江戸側)の入り口がここにあたる。「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖が」「御油や赤坂吉田がなくば 何のよしみで江戸通い( 俗謡) 」などの謡われ、飯盛女の数も多い宿場として知られていた。享和2年(1802年)、都に上る途中吉田を訪れた滝沢馬琴の本によれば、吉田の飯盛女は100余人と記されている。こうした宿場女郎の多くは, 伊勢から来たという。一般の女性は東三河の言葉を話すのに,宿場女郎たちだけは伊勢のなまりで話すと 馬琴が自身の紀行文「羈旅漫録」に記録している。彼は吉田の女性について、相当悪意に満ちた書き方をしている。「よし田のめし盛、夏は越後ちぢみにおなじ縞の前垂れをかけ、手に団扇をもちて 夜行す。よし田、岡崎とも、妓はことごとく伊勢より来るものなり。ゆえに妓ばかり 伊勢訛りなり。妓席上にて三弦を鳴すに、かむろだちなどうたふことあり。絶倒するに 堪たり。今切のわたしを経て西は、人物その外江戸にあらず。中国の風姿ここに於て 見るべし。土地の婦人はかならずしも美ならず。商家の衒妻などを見れば、暗黒天女の如し」鹿の子の振り袖は、若作りファッションだったようだ。婆さん芸者がど派手な着物に身を包み、少女の謡曲をやるから気持ち悪くて気絶しそうだと記し、ついでに商家の奥さんまでこっぴどく 非難している。