三方ヶ原の戦いを感じるスポット。
三方原古戦場の特徴
駐車場が隣接しており、便利に訪れることが可能です。
三方ヶ原の戦いを象徴する古戦場碑が立っています。
ここは歴史の舞台としての魅力が感じられる場所です。
徳川家康が、武田信玄に大敗を喫して人生最大ともされる危機に陥ったと言われる三方ヶ原の戦い。その古戦場として、石碑と看板があるのみ、ですが歴史ファンとしてはぜひ訪れたいスポットだと思います!
浜松駅から車で20分程で着きます。広い墓苑の敷地内にあり駐車場も広いです。ただここには三方ヶ原の戦いの概要を説明する看板と石碑が置かれているだけで10分程度で見終わってしまいます。
2023年12月26日に訪れました。元亀3年1572年に武田信玄は、上洛を開始しました。浜松城の北側に位置する三方ヶ原で徳川・織田連合軍と武田軍が激突し、徳川軍は惨敗しました。徳川家康唯一の敗戦と呼ばれています。敗戦時の家康の姿を描いた顰(しかみ)像は、有名です。明けて天正元年1573年に武田信玄は、西上途中、陣中で病没していまいます。
三方原古戦場として碑が在りますが、史跡として現存するものは無く、公共の墓苑が有るだけの為、ここを主目的地として来る価値は無いかな。戦場も厳密にこの場という訳では無く、市の所有地で碑を建てやすいので形式的に碑が在るだけだと思われます。古地図や伝記絵などから見ると、武田軍が待ち受けたのはこの近辺かもしれないけれども、本戦があったのは、この場よりも、もう少し南東の様に感じます。家康を誘き寄せる為に武田軍が三方ヶ原台地を降るフリをして引き返したとされる祝田(ほうだ)の旧坂は、碑の横を通る国道の坂よりも数百メートル程西方にありますが、狭く曲がりくねった、軽トラで通れるかどうかの道なので車両での通行はやめた方が良いです。また、家康との戦の後、体調が芳しく無い信玄が陣を置いて休養したとされる正確な場所は不明ですが、祝田坂を下った西方の刑部地区の刑部砦周辺とされ、近くに陣の平や陣座ケ谷(じんざがや)などの地名がある事から関係があるのかもしれません。ついでに、女城主直虎でも有名な井伊家の出身地である井伊谷は、横の国道を数キロ程北方に行った山際に在ります。
三方ケ原の戦いが、行われた場所と言われていますが、実際はここではないと言われ、場所はよくわかっていません。ただ慰霊碑があり、この周辺で行われたことはうかがえます。今は墓地や公園となっており、駐車場が広いので、安心して車を停めることはできますが、見る場所はほとんど無くて、数分で帰りました。この辺りは土が悪く水も無いので、平野ですが、当時は作物は栽培されていませんでした。家康にとっては、予想外だったとはいえ、こんな場所で戦えば、どう考えても、騎馬隊有利で、負けは必至。織田の援軍も、負けを確信して、ほとんど戦に参加していません。ここから、浜松城まではほとんど一本道なので、たどってみると、興味深いです。
三方原の戦いの古戦場碑と説明板が建っています。戦国時代の一大ハイライトの地になります。少し先に、祝田の旧坂がありますが、祝田の坂を降りたところでの合戦なのか、降りる手前で反転していたのかは意見が分かれるところです。ただ、降りる道はとても狭く、大軍が通るのには数時間かかるとみられ、その情報を得た徳川軍がチャンスと思って城から出たところ、ひっかかってきた徳川軍を武田軍が散々に打ちのめした合戦だったのではないかというのが、現地に行くと分かるような気がします。ちなみに、祝田の坂は、石碑の前を真っ直ぐ行くと突き当たり民家に入ってしまうため、坂の下に車を停めて登るのが正解だと思います。説明板は平成28年となっていて、旧来の本隊は天竜川を南に進軍という説から、高天神城の傍を通って、となっていました。
名前 |
三方原古戦場 |
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ジャンル |
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電話番号 |
053-457-2021 |
住所 |
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評価 |
3.5 |
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駐車場の隣でサクッと行けました。浜松城まで車で20分強。