中世の館で歴史に触れる✨
江上館跡の特徴
中世の館を再現した史跡で、歴史を感じられます。
奥山荘城跡の一部を復元した広大な公園です。
資料館も併設されており、武士の館の様子が学べます。
中世の館を再現した史跡。
■ 史跡 奥山荘城跡遺跡奥山荘は、現在の胎内市を中心に、新発田市・村上市・関川村の一部を含んだ広大な中世荘園で、摂関家領荘園であった。名称は北方の荒川に合流する女川上流の奥山 に由来するという。立荘は11世紀にさかのぼると考えられており、 建仁元年(1201)の 越後城氏の滅亡後、 鎌倉御家人三浦和田氏 が地頭として本格的に入部してきた。宝治 元年(1247)の鎌倉における三浦氏滅亡以降、 当地が一所懸命の地となった。建治3年(1277) に荘域が北条・中条(惣領家)南条 に3分割され、それぞれ後に黒川・中条・関沢と氏を名乗ることになった。 その後、 中条氏・黒川氏は、 阿賀北の国人領主として中世越後に足跡を刻んできた。奥山荘の地形は、 高坪系·櫛形山脈が東から南西へと連なり、 その西側に流れる胎内川や舟戸川等によって形成された扇状地が広がっている。海岸線に沿って砂丘列があり、明治21年(1888) に胎内川の開削が行われるまでは、砂丘に遮られた湿地帯で 南西部には清水港が存在していた。これら内陸の水路(岩船湊⇄荒川⇄胎内川⇄清水潟⇄沼垂潟⇄蒲原津)は、 水運の幹線路と して古代以来近世まで利用されていた。荘内に残る数多くの遺跡は、中世武士団の活躍の舞台となった東国荘園の姿を端的 に示すものとして貴重であり、 昭和59年10 月3日付けで国の史跡に指定され、 その後 順次路加指定を受け現在に至っている。■江上館跡江上館は、三浦和田一族の惣領家中条氏の居館と考えられており、中条の 中心に位置している。館内は60m四方 で、土塁·堀を合わせるとほぼ一町 (110m)四方となる。この一町四方という規格は、国人領主の身分を表し ている。館の存続時期は、ほぼ15世紀 代に限られており、 越後における方形居館の成立年代を考える上で貴重である。館には馬出状の郭が付属しており、 当初から主郭の北方を張り出させるプ ランをとっていた。当初、南北の虎口 は平入りであったが、 館の整備に伴っ て直進できない構造の虎口に作り変えられた。これは16世紀後半に織豊系城郭で採用されるより、 1世紀も早い段階で成立していた先駆的なものとして注目される。さらに虎口の整備に伴って館内部は、南方の晴(ハレ)の場と北方の(ケ)の日常空間が設定され、扉で仕切られるようになる。なお、館の周囲には家臣団の屋敷地や密教寺院などが配置されており、 館 が単独で存在していたのではないことが明らかとなっている。また南西300mの地点で江上館の前身にあたる坊城館が見つかったことから、本地域一帯が古くからの荘園の中心地である「政所条」内であったと考えられるようになってきている。
遺跡の一部を当時の状態に再現し、公園にしてあります。
中世の荘園遺跡、奥山荘のひとつを復元したものだそうです。
跡地だけでなく、資料館もあります。周りは住宅街で何でこんなところに遺跡が有るのかと思う一方で、このような住みやすい所だから館ができたなど、真相は分かりませんが、色々歴史の考察が膨らむ場所でした。
リフォームされてきれいに整いすぎてはいますが,中世武士の館の様子がはっきりと分かるのでおすすめです。ここを一回見れば,他の場所の館跡を見ても当時の様子がイメージしやすくなります。
名前 |
江上館跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.2 |
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