Perfume
と インディーズ
パフューム Perfume |
Perfume(パフューム)は、日本の音楽ユニット。中田ヤスタカがプロデュースする広島県出身の3人組テクノポップユニットである。 女性アイドルグループとしては相当に長い下積みを経て、2007年から2008年にかけてブレイク。以降も長く人気を保つ女性アイドルグループである。独特の音楽性やダンス、舞台演出等に特徴がある。 アミューズ所属。レコードレーベルはPerfume Records / ユニバーサルJ。公式ファンクラブは「P.T.A.」。 |
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2002年、アミューズへ所属したことを機に2003年春、中学3年生進級と同時に上京し、表記をアルファベットの「Perfume」へ改められた。
かしゆかは「すごいこだわってやってたんだけど、あっさり、事務所の会長(大里洋吉)に英語にされて」、あ~ちゃん「これだけは、すがったよね」、かしゆか「頑張ったんだけどね、小さいながらに 今じゃ感謝してる(笑)」、あ~ちゃん「今見たら、インディーズ感がハンパない 字面でこうもなりますかっていう(笑)」、のっち「ありがとう、会長(笑)」などと話している。
2002年3月、アクターズスクール広島「もみじレーベル」よりシングル「OMAJINAI★ペロリ」でインディーズデビュー。
広島限定のご当地アイドル(ローカルアイドル)として活動。
第一次ロコドルブームが興ったのは2003年で、ぱふゅ〜む(Perfume)は2003年に上京したが、当時のPerfumeは新潟のねぎっこ(Negicco)、山形のSHIP、長野のネイチャJr.、岡山と香川のTV局が作ったBachicco!、同じ広島のサンフラワーなどと共にロコドルの括りに入れられていた。
ロコドルは当時はまだ全国に多くはいなかった。
ぱふゅ〜む(Perfume)はローカルアイドルとしてもハシリに位置するグループで、結成から2020年で20周年を迎え、ローカルアイドル出身の女性アイドルグループとしても、同一メンバーによる女性アイドルグループとしても長い活動歴で知られる。
アジアの音楽圏の中でも、同一メンバーで長くメジャーの第一線で活躍する女性アイドルグループはほとんどいないとされ、メジャーの第一線で活躍する女性アイドルグループという点にまで絞れば、活動20年は日本の音楽史上では初めてのケースで、未知の領域に入っている。
2002年7月14日、横浜クィーンズスクウェアで開催されたファッションショー「NARUMI JUNIOR CITYパラダイスコレクション」出演。
2003年5月3日の日本青年館を皮切りにBEE-HIVEのメンバーとして全国7大都市ツアー他、イベントに出演。
2003年8月6日、「Perfume」として最初のシングル「スウィートドーナッツ」をBEE-HIVEレコードよりリリース リリースイベントは同日渋谷TSUTAYA アミューズのテクノ好きの新人社員のアイデアを徳間ジャパンコミュニケーションズの篠木雅博第二制作本部本部長(当時)が承認し、サウンドプロデューサーにCAPSULEの中田ヤスタカを迎え、既存のJ-Pop女性グループ特有のアイドル歌謡に背を向け、広島時代とは全く異なるテクノポップ路線に転換する。
あ〜ちゃんは「Perfumeの当時のマネージャー(もっさんこと、山本史朗)が『Challenger』の原曲を聴いて、『この人の曲いいな』と中田さんにプロデュースをお願いに行った」と話している。
中田ヤスタカは2001年にデビューしたばかりで、無名の若手プロデューサーに全面的にサウンドプロデュースを任せるという、過去にあまり例のない手法での展開を始める。
インディーズ期は、全楽曲を木の子が作詞、メジャー期の「コンピューターシティ」のカップリング「Perfume」までが木の子の作詞、以降は全ての楽曲の作詞作曲編曲は中田ヤスタカ。
インディーズ期のCDは、全国のTSUTAYAを中心とした流通。
2004年1月3日、SHIBUYA BOXXで初ワンマンライブ「BEE-HIVE New Year Live '04 〜Perfume day〜」開催。
2004年8月、『Cutie Pop Union '04 〜Summer〜』出演。
テルミンやシンセドラム、ヴォコーダーなどの演奏に挑戦した。
2004年9月、シングル「ビタミンドロップ」をリリース インディーズ時代の3枚のシングルについて、四方宏明は「未だかって、こんなにキックが利いている歌謡曲を歌ったアイドルはいない」と評した。
以後、アイドルの登竜門として知られるサンストリート亀戸でのイベントに多数出演し、秋葉原での路上ライブや小さなイベント出演などで経験を積んだ 当時はアイドルのイベントそのものが多くはなく、未分化の時代 イベントでは女子高生から「何、アイドル?」と笑われ、たまにテレビに出たら、共演したアイドルに「衣装すごいね」などと奇抜な衣装をいじられた。
後に急激にメディア露出が増えた際、Perfumeをマスメディアがよく知らず、Perfumeを"アキバ系"と紹介することも多かった。
不定期なリリースもあり、セールスは振るわなかったが、アイドルファンのみならず、「楽曲派」と呼ばれた一部のアイドルファンやテクノファンの間で、カルト的人気を博す 海外のメディアには「秋葉原の執拗なオタクサブカルチャーに受け入れられて名声を得た」と紹介されるケースもある。
2004年10月、広島城秋まつりに出演。
2005年8月、クラブイベント『J-POP Union vol.2』では、DJとして登場した大本が「ジューシーフレグランス」をプレイした(音源未発表)。
テクノポップは当時は一部のマニアが支持するジャンルであったため、2000年代前半としては特異な音楽性や前例のないレコーディングスタイル等が、当時所属したレコード会社である徳間ジャパンコミュニケーションズの幹部やディレクターやスタッフにも理解されなかった。
インディーズ時代のシングル3枚は、この後廃盤になり、2008年に再発売。
9月21日、シングル「リニアモーターガール」でメジャーデビュー 記念すべきメジャーデビュー当日は仕事がなく、メンバーは普通に学校に行った。
インディーズ時代の「レトロな'80年代風テクノ」路線のカラフルな衣装から一転し、PVでは「近未来」をイメージしたテクノな黒を基調とした衣装へ変化 この時から「近未来型テクノポップユニット」を名乗るようになる。
PVは、映画『フィフス・エレメント』か、『メトロポリス』がモチーフ インディーズのときは『レトロなテクノ』と言われて、カラフルなワンピースを着ていたが、メジャーデビューからは『近未来』をイメージしたテクノになり、衣装も黒いコスチュームを着せられ戸惑った。
メジャーレーベルに入るのが怖く、また「リニアモーターガール」が風変わりな曲で、当時はもっと感動的な曲を歌いたいと思っていたので、「こんな曲では人気が出るわけない」と思ったという 徳間ジャパンの篠木第二制作本部本部長から「シングル3枚ぐらいは大丈夫だから」などと言われいたく傷つく 依然としてセールスは芳しくなく、状況は停滞気味だったが、日本最大のJ-POPクラブイベント「申し訳ないと」のDJ陣である宇多丸(RHYMESTER)や掟ポルシェがPerfumeの活動を後押しする言動を取るようになった。
宇多丸は雑誌『BUBKA』の自身の連載「マブ論」でPerfumeを「アイドルポップ最後の希望」などと絶賛、宇多丸は後に「木村カエラより4年早くPerfumeを応援していた」と主張した。
掟ポルシェは月刊『サイゾー』2005年7月号で、Perfumeを「広島産変わり者女子高校生3人組」と紹介した。
Perfumeの楽曲は、テクノポップやハウスミュージック、エレクトロ・ポップなどの要素が含まれる。
2000年代前半のテクノポップのイメージは、「ピコピコ鳴ってる音楽」ぐらいの認識で、パワーの弱い音楽という印象を持たれていた。
マーティ・フリードマンは「それまではギター無しの音楽って力が無い、ギターの力のあるサウンドは他には出せないって思ってたんですが、『GAME』の武道館ライヴを観て、あまりに印象的で考え方が変わりました。
ギターいらん(笑)ライヴのパワー、低音の太さ、存在感がギターが無くてもあった」などと評している。
2003年、東京でインディーズデビューしてから現在に至るまで、楽曲提供を行っているのは音楽ユニットCAPSULEのメンバー、中田ヤスタカである。
サウンドプロデューサーとして中田の名前が挙がったのは、Perfumeが上京した当時、「Perfumeをテクノ歌謡風のアイドルにしたい」という事務所の意向を実現できる人物を探そうとしていたところ、当時のPerfumeのマネージャーが中田の曲を以前からよく聞いており、彼が適任であると判断されたことによる。
中田はヴォーカルのレコーディングの際に、自宅兼スタジオで歌詞が書かれた紙をレコーディング直前に渡し、その場で覚えさせ、3人を電話ボックス大のブースの椅子に座らせて行う。
また、レコーディングにあたり中田から歌詞の意味を説明されることはなく、3人に対してなされる指示は「しゃべるように歌って」「そっけなく歌って」というようなものだけであった。
中田から楽曲提供を受けることとなった当初、3人はテクノポップという音楽ジャンルが存在することを知らなかった上に、以前通っていたアクターズスクール広島のレッスンでは"楽曲に対してできる限り自分の感情をこめてDivaのように歌う"ように指導されていたことから、中田のこのような指示が理解できず、毎回のように泣きながらレコーディングを行っていた。
このため、インディーズデビュー後間もない頃には、歌い上げるみたいな感じで歌い、反抗している感じ、声がマッチしていない、理解できなくてただ歌わされているという感じであったといい、特に『スウィートドーナッツ』にはこのような印象が実際に表れている。
当初は3人が中田の指示を理解できず、楽曲が好きになれない状態が続いたものの、メンバーがクラブイベントに参加した際に、フロアーがPerfumeの曲で楽しそうに踊っているところを目の当たりにするなどの経験から、自分達がかっこいい曲を作っているという自信につながり、テクノが好きになり、曲作りにだんだんと主体的に取り組むようになった。
メンバーが中田に意見を言えるようになったのは2008年のアルバム『GAME』制作のときからという。
「モノクロームエフェクト」のジャケット制作からPerfumeに関わった映像クリエイター関和亮が、「ビタミンドロップ」以降、多くの作品のPV等のビジュアル面をディレクションしている。
RHYMESTERの宇多丸と、ロマンポルシェ の掟ポルシェは、普通のアイドルのCDは曲調とジャケットとPVが全部バラバラなんてことはザラにある中、関がインディーズの時代から整合性のあるトータル的なビジュアルイメージを作っていた、と述べている。
アートディレクションを一貫してコントロールする関の存在により、作品ごとに異なる手法・趣向が導入されながらもアーティストイメージの整合性・統一感が保たれている。
関は「三人を使って実験をしているんじゃないかって でもそういうところから面白いものは生まれますからね」、「3人にはまだまだ可能性を感じる」「もちろん僕自身も彼女たちで試したら面白そうだなってことがいっぱいあるし、やれたらいいなと思います」と述べている。
かしゆかは「すごいこだわってやってたんだけど、あっさり、事務所の会長(大里洋吉)に英語にされて」、あ~ちゃん「これだけは、すがったよね」、かしゆか「頑張ったんだけどね、小さいながらに 今じゃ感謝してる(笑)」、あ~ちゃん「今見たら、インディーズ感がハンパない 字面でこうもなりますかっていう(笑)」、のっち「ありがとう、会長(笑)」などと話している。
2002年3月、アクターズスクール広島「もみじレーベル」よりシングル「OMAJINAI★ペロリ」でインディーズデビュー。
広島限定のご当地アイドル(ローカルアイドル)として活動。
第一次ロコドルブームが興ったのは2003年で、ぱふゅ〜む(Perfume)は2003年に上京したが、当時のPerfumeは新潟のねぎっこ(Negicco)、山形のSHIP、長野のネイチャJr.、岡山と香川のTV局が作ったBachicco!、同じ広島のサンフラワーなどと共にロコドルの括りに入れられていた。
ロコドルは当時はまだ全国に多くはいなかった。
ぱふゅ〜む(Perfume)はローカルアイドルとしてもハシリに位置するグループで、結成から2020年で20周年を迎え、ローカルアイドル出身の女性アイドルグループとしても、同一メンバーによる女性アイドルグループとしても長い活動歴で知られる。
アジアの音楽圏の中でも、同一メンバーで長くメジャーの第一線で活躍する女性アイドルグループはほとんどいないとされ、メジャーの第一線で活躍する女性アイドルグループという点にまで絞れば、活動20年は日本の音楽史上では初めてのケースで、未知の領域に入っている。
2002年7月14日、横浜クィーンズスクウェアで開催されたファッションショー「NARUMI JUNIOR CITYパラダイスコレクション」出演。
2003年5月3日の日本青年館を皮切りにBEE-HIVEのメンバーとして全国7大都市ツアー他、イベントに出演。
2003年8月6日、「Perfume」として最初のシングル「スウィートドーナッツ」をBEE-HIVEレコードよりリリース リリースイベントは同日渋谷TSUTAYA アミューズのテクノ好きの新人社員のアイデアを徳間ジャパンコミュニケーションズの篠木雅博第二制作本部本部長(当時)が承認し、サウンドプロデューサーにCAPSULEの中田ヤスタカを迎え、既存のJ-Pop女性グループ特有のアイドル歌謡に背を向け、広島時代とは全く異なるテクノポップ路線に転換する。
あ〜ちゃんは「Perfumeの当時のマネージャー(もっさんこと、山本史朗)が『Challenger』の原曲を聴いて、『この人の曲いいな』と中田さんにプロデュースをお願いに行った」と話している。
中田ヤスタカは2001年にデビューしたばかりで、無名の若手プロデューサーに全面的にサウンドプロデュースを任せるという、過去にあまり例のない手法での展開を始める。
インディーズ期は、全楽曲を木の子が作詞、メジャー期の「コンピューターシティ」のカップリング「Perfume」までが木の子の作詞、以降は全ての楽曲の作詞作曲編曲は中田ヤスタカ。
インディーズ期のCDは、全国のTSUTAYAを中心とした流通。
2004年1月3日、SHIBUYA BOXXで初ワンマンライブ「BEE-HIVE New Year Live '04 〜Perfume day〜」開催。
2004年8月、『Cutie Pop Union '04 〜Summer〜』出演。
テルミンやシンセドラム、ヴォコーダーなどの演奏に挑戦した。
2004年9月、シングル「ビタミンドロップ」をリリース インディーズ時代の3枚のシングルについて、四方宏明は「未だかって、こんなにキックが利いている歌謡曲を歌ったアイドルはいない」と評した。
以後、アイドルの登竜門として知られるサンストリート亀戸でのイベントに多数出演し、秋葉原での路上ライブや小さなイベント出演などで経験を積んだ 当時はアイドルのイベントそのものが多くはなく、未分化の時代 イベントでは女子高生から「何、アイドル?」と笑われ、たまにテレビに出たら、共演したアイドルに「衣装すごいね」などと奇抜な衣装をいじられた。
後に急激にメディア露出が増えた際、Perfumeをマスメディアがよく知らず、Perfumeを"アキバ系"と紹介することも多かった。
不定期なリリースもあり、セールスは振るわなかったが、アイドルファンのみならず、「楽曲派」と呼ばれた一部のアイドルファンやテクノファンの間で、カルト的人気を博す 海外のメディアには「秋葉原の執拗なオタクサブカルチャーに受け入れられて名声を得た」と紹介されるケースもある。
2004年10月、広島城秋まつりに出演。
2005年8月、クラブイベント『J-POP Union vol.2』では、DJとして登場した大本が「ジューシーフレグランス」をプレイした(音源未発表)。
テクノポップは当時は一部のマニアが支持するジャンルであったため、2000年代前半としては特異な音楽性や前例のないレコーディングスタイル等が、当時所属したレコード会社である徳間ジャパンコミュニケーションズの幹部やディレクターやスタッフにも理解されなかった。
インディーズ時代のシングル3枚は、この後廃盤になり、2008年に再発売。
9月21日、シングル「リニアモーターガール」でメジャーデビュー 記念すべきメジャーデビュー当日は仕事がなく、メンバーは普通に学校に行った。
インディーズ時代の「レトロな'80年代風テクノ」路線のカラフルな衣装から一転し、PVでは「近未来」をイメージしたテクノな黒を基調とした衣装へ変化 この時から「近未来型テクノポップユニット」を名乗るようになる。
PVは、映画『フィフス・エレメント』か、『メトロポリス』がモチーフ インディーズのときは『レトロなテクノ』と言われて、カラフルなワンピースを着ていたが、メジャーデビューからは『近未来』をイメージしたテクノになり、衣装も黒いコスチュームを着せられ戸惑った。
メジャーレーベルに入るのが怖く、また「リニアモーターガール」が風変わりな曲で、当時はもっと感動的な曲を歌いたいと思っていたので、「こんな曲では人気が出るわけない」と思ったという 徳間ジャパンの篠木第二制作本部本部長から「シングル3枚ぐらいは大丈夫だから」などと言われいたく傷つく 依然としてセールスは芳しくなく、状況は停滞気味だったが、日本最大のJ-POPクラブイベント「申し訳ないと」のDJ陣である宇多丸(RHYMESTER)や掟ポルシェがPerfumeの活動を後押しする言動を取るようになった。
宇多丸は雑誌『BUBKA』の自身の連載「マブ論」でPerfumeを「アイドルポップ最後の希望」などと絶賛、宇多丸は後に「木村カエラより4年早くPerfumeを応援していた」と主張した。
掟ポルシェは月刊『サイゾー』2005年7月号で、Perfumeを「広島産変わり者女子高校生3人組」と紹介した。
Perfumeの楽曲は、テクノポップやハウスミュージック、エレクトロ・ポップなどの要素が含まれる。
2000年代前半のテクノポップのイメージは、「ピコピコ鳴ってる音楽」ぐらいの認識で、パワーの弱い音楽という印象を持たれていた。
マーティ・フリードマンは「それまではギター無しの音楽って力が無い、ギターの力のあるサウンドは他には出せないって思ってたんですが、『GAME』の武道館ライヴを観て、あまりに印象的で考え方が変わりました。
ギターいらん(笑)ライヴのパワー、低音の太さ、存在感がギターが無くてもあった」などと評している。
2003年、東京でインディーズデビューしてから現在に至るまで、楽曲提供を行っているのは音楽ユニットCAPSULEのメンバー、中田ヤスタカである。
サウンドプロデューサーとして中田の名前が挙がったのは、Perfumeが上京した当時、「Perfumeをテクノ歌謡風のアイドルにしたい」という事務所の意向を実現できる人物を探そうとしていたところ、当時のPerfumeのマネージャーが中田の曲を以前からよく聞いており、彼が適任であると判断されたことによる。
中田はヴォーカルのレコーディングの際に、自宅兼スタジオで歌詞が書かれた紙をレコーディング直前に渡し、その場で覚えさせ、3人を電話ボックス大のブースの椅子に座らせて行う。
また、レコーディングにあたり中田から歌詞の意味を説明されることはなく、3人に対してなされる指示は「しゃべるように歌って」「そっけなく歌って」というようなものだけであった。
中田から楽曲提供を受けることとなった当初、3人はテクノポップという音楽ジャンルが存在することを知らなかった上に、以前通っていたアクターズスクール広島のレッスンでは"楽曲に対してできる限り自分の感情をこめてDivaのように歌う"ように指導されていたことから、中田のこのような指示が理解できず、毎回のように泣きながらレコーディングを行っていた。
このため、インディーズデビュー後間もない頃には、歌い上げるみたいな感じで歌い、反抗している感じ、声がマッチしていない、理解できなくてただ歌わされているという感じであったといい、特に『スウィートドーナッツ』にはこのような印象が実際に表れている。
当初は3人が中田の指示を理解できず、楽曲が好きになれない状態が続いたものの、メンバーがクラブイベントに参加した際に、フロアーがPerfumeの曲で楽しそうに踊っているところを目の当たりにするなどの経験から、自分達がかっこいい曲を作っているという自信につながり、テクノが好きになり、曲作りにだんだんと主体的に取り組むようになった。
メンバーが中田に意見を言えるようになったのは2008年のアルバム『GAME』制作のときからという。
「モノクロームエフェクト」のジャケット制作からPerfumeに関わった映像クリエイター関和亮が、「ビタミンドロップ」以降、多くの作品のPV等のビジュアル面をディレクションしている。
RHYMESTERの宇多丸と、ロマンポルシェ の掟ポルシェは、普通のアイドルのCDは曲調とジャケットとPVが全部バラバラなんてことはザラにある中、関がインディーズの時代から整合性のあるトータル的なビジュアルイメージを作っていた、と述べている。
アートディレクションを一貫してコントロールする関の存在により、作品ごとに異なる手法・趣向が導入されながらもアーティストイメージの整合性・統一感が保たれている。
関は「三人を使って実験をしているんじゃないかって でもそういうところから面白いものは生まれますからね」、「3人にはまだまだ可能性を感じる」「もちろん僕自身も彼女たちで試したら面白そうだなってことがいっぱいあるし、やれたらいいなと思います」と述べている。
2020/12/23(水)



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