安全地帯_(ロックバンド)
と 安全地帯
あんぜんちたい 安全地帯_(ロックバンド) |
安全地帯(あんぜんちたい)は、日本のロックバンド。 1973年にボーカルの玉置浩二およびギタリストの武沢豊を中心に北海道の旭川市で結成。バンド名は、道路交通法による「安全地帯」から命名。北海道内でのアマチュア活動後、井上陽水のバックバンドとしての全国ツアーを経て1982年にシングル「萠黄色のスナップ」でメジャー・デビュー。1983年にリリースしたシングル「ワインレッドの心」が71.4万枚の大ヒットとなり、以後「恋の予感」「熱視線」「悲しみにさよなら」「碧い瞳のエリス」など多数のヒット曲をリリース。また1985年にリリースした4thアルバム『安全地帯IV』はオリコンチャートにて週間、年間共に第1位を獲得し累計92.9万枚の大ヒット作品となった。 1988年初秋に活動休止。玉置はソロ活動や俳優業として活動。1990年初夏に活動再開。その後1993年のシングル「ひとりぼっちのエール」を以て再び活動休止。2002年に9年振りにシングル「出逢い」発売後活動再開。その後2003年に3度目の活動休止。2010年にシングル「蒼いバラ」にて活動再開。以降、各メンバーソロ活動と並行してバンドも定期的に活動。 |
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ポプコン第12回では「昔にみたもの」で北海道代表に選ばれ、嬬恋本選会に登録される。
12月25日、札幌市内にてFMラジオ番組の生放送に『安全地帯』として初出演する。
5曲を披露する。
4月、六土開正が病気のため入院。
10月、キティレコードから再びレコーディングの依頼があり、六土は病院の特別許可を得てライブ参加。
ライヴ当夜、キティレコードと仮契約を結ぶ。
11月、六土が退院。
12月、武沢豊が仮退院する。
28日のライヴ終了後、元モップスのギタリスト・星勝を交えてミーティングを行なう。
星は心身ともに優れず意気消沈しているこの時期の安全地帯の精神的支柱であった。
1月、キティレコードから正式にレコーディングが依頼される。
3月、武沢俊也が脱退する。
7月、井上陽水が星勝の紹介でMFPを訪問する。
共演する。
ロック以外に歌謡曲やポップスの幅広い音楽に自然に目を向けるように促される。
その後、井上の招聘により安全地帯が上京する。
東京での初ライヴを渋谷『屋根裏』で開催する。
伊豆ポリドールスタジオ(後のキティスタジオ)にて、「オン・マイ・ウェイ」のレコーディングを開始し、その合間に東京、大阪、神戸のライヴハウスに出演する。
8月、『'81井上陽水ツアー』にバックバンドに起用され、同行が決定する。
MFPに戻り、ツアーのための練習に励む 22日、第4回ステージフライトにゲスト出演する。
井上のツアーの最終リハーサルとレコーディングのため再び上京し、東京での合宿生活が始まる。
9月24日、井上陽水ツアーが熊本市民会館からスタートし、12月10日の東京・渋谷公会堂の最終回まで全国23カ所の公演に参加する。
ツアー衣装は、当初無給のため、渋谷のジーンズメイトで購入したものを履き、鉢巻きというスタイル。
ツアーの経験から、自信のあった練習量、実力のある多くの同等バンドの存在に気付き挫折感を味わうが、さらに練習に励む。
11月、「オン・マイ・ウェイ」がブリヂストン・スノータイヤのCMソングに起用され、北海道、東北地方にて放映される。
1月24日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に井上陽水のバックバンドとして初出演する。
井上陽水の春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの全国ツアーのバックバンドを務めた。
2月25日、シングル「萠黄色のスナップ」でデビュー 4月、キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)と正式契約 メンバーは東京に転居して合宿生活を開始するが、大平市治が脱退する。
田中裕二が再加入することで、デビュー以後の安全地帯の5人のメンバーが確立した。
5月、東京・渋谷『エッグマン』でライヴ 7月、井上陽水のバックバンドとして、東京・日比谷野外音楽堂、大阪城野外音楽堂のコンサートをサポートする。
8月上旬、札幌市郊外で開催されていた『北海道博覧会』特設会場に、FM北海道の招きで出演する。
下旬、1st.アルバム『安全地帯I Remember to Remember』のレコーディングを伊豆ポリドールスタジオで開始し、メンバーの合宿生活を終える。
玉置は、東京・目黒の四畳半一間のアパートを借家。
一人暮らしに馴染めず、売り上げの芳しくないレコード、コンサートが続くことも相まって、自暴自棄に陥りそうになる。
苦しいなりにも自信は失っておらず、テレビコマーシャルか番組主題歌に起用される機会を窺っていた。
10月25日、2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を発表し、ブリヂストン・アイスコンパウンド・イメージソングに起用された。
11月、井上陽水のツアーに翌年1月まで同行した。
1月25日、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember』を発表する。
その後、サントリーから発売された「赤玉パンチ」のCMソングに起用された4thシングル「ワインレッドの心」が大ヒット。
一躍全国にその名が知れ渡る。
8月、神宮球場においては初となるコンサートを井上陽水と共に行う。
12月、アナログ盤にして3枚組となるアルバム『安全地帯V』を発売。
また、「ワインレッドの心」「恋の予感」「Friend」などが香港でカバーされ、それぞれヒットした。
安全地帯の活動の合間を縫ってソロでの活動も進められ、夏に玉置自身初のソロでのシングルとアルバムをリリースする。
秋、香港コロシアムでのコンサートを最後に活動休止を宣言。
その原因として、メンバー個々の活動が活発化し、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』以降の音楽性の追求方向のメンバー間の相違によるとされる。
宣言後の5人は約2年間、個々の活動を行なう。
7月、約2年ぶりのオリジナルアルバムとなる『安全地帯VII〜夢の都』をリリースする。
収録曲の「この道は何処へ」は1991年冬季ユニバーシアードテーマ曲。
12月、オリジナルアルバム『安全地帯VIII〜太陽』をリリースする。
2月10日、23rdシングル「ひとりぼっちのエール」がリリースされる。
活動休止を境に玉置は、ソロと俳優業を中心とした活動に移行し、武沢豊はプロデュース業に専念、他のメンバーも個々の活動に入る。
この時、安全地帯の所属会社がキティレコードからソニー・ミュージックエンタテインメントに移るが、安全地帯名義の活動は約10年間休止したままだった。
この頃より安全地帯としての音楽製作を本格的に再開する。
7月10日、9年ぶりに24thシングル『出逢い』がリリースされる。
発売前日、5人揃って記者会見が行われた。
8月7日に9thアルバム『安全地帯IX』が発売され、9月からツアーが始まったが、武沢は怪我のため参加できなかった。
10月22日、10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』がリリースされる。
ツアーでは5人全員が揃い、80年代の活動の場であったライブハウス「Shibuya eggman」でもライブを行う。
12月、ツアー全日程を終了。
ツアー終了後約6年間、グループは再び長期休止状態となる(この時も解散扱いとはしていない)。
14thアルバム『安全地帯XIV〜The Saltmoderate Show〜』を発売。
レーベル発足後初となる全国ツアー開催。
ROCK IN JAPAN FESTIVALへ参加。
その後韓国・香港・台湾でのアジアツアーを挙行。
12月25日、札幌市内にてFMラジオ番組の生放送に『安全地帯』として初出演する。
5曲を披露する。
4月、六土開正が病気のため入院。
10月、キティレコードから再びレコーディングの依頼があり、六土は病院の特別許可を得てライブ参加。
ライヴ当夜、キティレコードと仮契約を結ぶ。
11月、六土が退院。
12月、武沢豊が仮退院する。
28日のライヴ終了後、元モップスのギタリスト・星勝を交えてミーティングを行なう。
星は心身ともに優れず意気消沈しているこの時期の安全地帯の精神的支柱であった。
1月、キティレコードから正式にレコーディングが依頼される。
3月、武沢俊也が脱退する。
7月、井上陽水が星勝の紹介でMFPを訪問する。
共演する。
ロック以外に歌謡曲やポップスの幅広い音楽に自然に目を向けるように促される。
その後、井上の招聘により安全地帯が上京する。
東京での初ライヴを渋谷『屋根裏』で開催する。
伊豆ポリドールスタジオ(後のキティスタジオ)にて、「オン・マイ・ウェイ」のレコーディングを開始し、その合間に東京、大阪、神戸のライヴハウスに出演する。
8月、『'81井上陽水ツアー』にバックバンドに起用され、同行が決定する。
MFPに戻り、ツアーのための練習に励む 22日、第4回ステージフライトにゲスト出演する。
井上のツアーの最終リハーサルとレコーディングのため再び上京し、東京での合宿生活が始まる。
9月24日、井上陽水ツアーが熊本市民会館からスタートし、12月10日の東京・渋谷公会堂の最終回まで全国23カ所の公演に参加する。
ツアー衣装は、当初無給のため、渋谷のジーンズメイトで購入したものを履き、鉢巻きというスタイル。
ツアーの経験から、自信のあった練習量、実力のある多くの同等バンドの存在に気付き挫折感を味わうが、さらに練習に励む。
11月、「オン・マイ・ウェイ」がブリヂストン・スノータイヤのCMソングに起用され、北海道、東北地方にて放映される。
1月24日、フジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』に井上陽水のバックバンドとして初出演する。
井上陽水の春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの全国ツアーのバックバンドを務めた。
2月25日、シングル「萠黄色のスナップ」でデビュー 4月、キティレコード(現・ユニバーサルミュージック)と正式契約 メンバーは東京に転居して合宿生活を開始するが、大平市治が脱退する。
田中裕二が再加入することで、デビュー以後の安全地帯の5人のメンバーが確立した。
5月、東京・渋谷『エッグマン』でライヴ 7月、井上陽水のバックバンドとして、東京・日比谷野外音楽堂、大阪城野外音楽堂のコンサートをサポートする。
8月上旬、札幌市郊外で開催されていた『北海道博覧会』特設会場に、FM北海道の招きで出演する。
下旬、1st.アルバム『安全地帯I Remember to Remember』のレコーディングを伊豆ポリドールスタジオで開始し、メンバーの合宿生活を終える。
玉置は、東京・目黒の四畳半一間のアパートを借家。
一人暮らしに馴染めず、売り上げの芳しくないレコード、コンサートが続くことも相まって、自暴自棄に陥りそうになる。
苦しいなりにも自信は失っておらず、テレビコマーシャルか番組主題歌に起用される機会を窺っていた。
10月25日、2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を発表し、ブリヂストン・アイスコンパウンド・イメージソングに起用された。
11月、井上陽水のツアーに翌年1月まで同行した。
1月25日、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember』を発表する。
その後、サントリーから発売された「赤玉パンチ」のCMソングに起用された4thシングル「ワインレッドの心」が大ヒット。
一躍全国にその名が知れ渡る。
8月、神宮球場においては初となるコンサートを井上陽水と共に行う。
12月、アナログ盤にして3枚組となるアルバム『安全地帯V』を発売。
また、「ワインレッドの心」「恋の予感」「Friend」などが香港でカバーされ、それぞれヒットした。
安全地帯の活動の合間を縫ってソロでの活動も進められ、夏に玉置自身初のソロでのシングルとアルバムをリリースする。
秋、香港コロシアムでのコンサートを最後に活動休止を宣言。
その原因として、メンバー個々の活動が活発化し、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり』以降の音楽性の追求方向のメンバー間の相違によるとされる。
宣言後の5人は約2年間、個々の活動を行なう。
7月、約2年ぶりのオリジナルアルバムとなる『安全地帯VII〜夢の都』をリリースする。
収録曲の「この道は何処へ」は1991年冬季ユニバーシアードテーマ曲。
12月、オリジナルアルバム『安全地帯VIII〜太陽』をリリースする。
2月10日、23rdシングル「ひとりぼっちのエール」がリリースされる。
活動休止を境に玉置は、ソロと俳優業を中心とした活動に移行し、武沢豊はプロデュース業に専念、他のメンバーも個々の活動に入る。
この時、安全地帯の所属会社がキティレコードからソニー・ミュージックエンタテインメントに移るが、安全地帯名義の活動は約10年間休止したままだった。
この頃より安全地帯としての音楽製作を本格的に再開する。
7月10日、9年ぶりに24thシングル『出逢い』がリリースされる。
発売前日、5人揃って記者会見が行われた。
8月7日に9thアルバム『安全地帯IX』が発売され、9月からツアーが始まったが、武沢は怪我のため参加できなかった。
10月22日、10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜』がリリースされる。
ツアーでは5人全員が揃い、80年代の活動の場であったライブハウス「Shibuya eggman」でもライブを行う。
12月、ツアー全日程を終了。
ツアー終了後約6年間、グループは再び長期休止状態となる(この時も解散扱いとはしていない)。
14thアルバム『安全地帯XIV〜The Saltmoderate Show〜』を発売。
レーベル発足後初となる全国ツアー開催。
ROCK IN JAPAN FESTIVALへ参加。
その後韓国・香港・台湾でのアジアツアーを挙行。
2016/5/17(火)



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