SADS
と 小林勝
サッズ SADS |
SADS(サッズ)は、黒夢のボーカリストとして活動してきた清春が、自身のレーベル「FULLFACE」を立ち上げ、1999年に結成した日本のロックバンド。2003年に活動休止、2010年に再始動、2018年をもって再度、活動休止することを発表した。 |
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さらに、大阪公演ではノリの悪いオーディエンスに愛想を尽かし、アンコール半ばで公演を終了するなどバンドの雰囲気はどん底であった。
バビロンツアーの明るい材料と言えば、2000年初めのツアーからサポートとして参加していたベースの 小林勝が追加公演の大阪城ホールを以って、正式メンバーとして加入することが発表されたことだろう。
これまで交代を繰り返してきたベースがようやく固まることになる。
余談だが、『BABYLON』リリース時に一定の売り上げ枚数を越えた場合、SADSの広告宣伝料を増加する条件を東芝EMIサイドから提示されていた。
結果的に、あと一歩のところで条件枚数に到達できなかったことを『清春35X』でのインタビューで語られている。
また、この年11月にリリースしたシングル「NIGHTMARE」は映画『漂流街』のオープニング、エンディング双方の主題歌となった。
(『漂流街』には清春に役者として出演のオファーもきていた)。
2002年は、風雲急を告げる事態で幕を開ける。
前年に契約を交わしたBMG JAPANとの契約を解消した。
このため、4thアルバム『“ ”(untitled)』はライブ会場限定販売とFC通信販売のみという、実質インディーズバンドとしての活動を余儀なくされる。
清春は、同アルバムを正規の流通網で販売しようと試みたが、同年のロングツアーに忙殺されてそれが出来なかったと後のインタビューで語っている。
2002年のツアー「TOUR GOOD-BYE 2002!! "BEAUTIFUL DAYS" FOR HEAVY PETTIING & FOR ENTERTAINMENT」は、2002年4月からの12月までライブハウス131公演 (HEAVY PETTIING) と翌年1月2月のホール10公演 (ENTERTAINMENT) まで続く、全141公演 (沖縄を除く46都道府県) という過去に例がないほどのロングツアーが組まれた。
同ツアーの目的は、「ライブの本数をこなしながらバンドとしての音を固めていく」 (清春談)、「3人がSADSに居ることが相応しいかどうかが問われる」 (坂下談) と、それぞれ目的があった。
快調に進むかに思われたが、ツアー序盤から早くもメンバーの技術的な問題が表面化する。
小林勝は「バンドの問題点について敢えて何も言わなかったが、それは失敗だった」と悔いていた。
注目すべき点は、この年から清春がアコースティックギターを本格的に始めた事である。
「Everything」や「Masquerade」、「憂鬱という名の夢」といった曲などでギターを弾きながら歌い始めている。
バンド内の問題やライブのマンネリ化に対し、日々ギターに触れることでそれを忘れることが出来、清春にとって癒しになっていたとDVD『131days』内のインタビューで語った。
ツアーも中盤に差し掛かった頃、満園が泥酔し、腕枕をしたまま眠りに落ちてしまい、左腕神経麻痺を発症する。
公演日程のキャンセル・振り替えを余儀なくされる。
(満園の一件で、当初予定されていた翌年の10公演は中止となる)。
当初は短期間で回復が見込まれると思われたが回復の目途が立たない為、急遽サポートメンバーとして舛岡圭司を迎えてツアーを再開する。
彼のスタイルは、豪快でパワフルな満園のそれとは対照的であり、彼から何かを学び得ようと、敢えて満園とタイプの異なるサポートメンバーを加えた背景があった。
満園が復帰するまでの約60本のライブを「外の庭、外の景色を観ていた」と清春は表現している。
また、満園の怪我による振り替え公演で数回行ったアコースティックライブを通して、清春自身は楽器としてのヴォーカルではない、歌を歌うことについて改めて考えさせられる。
この時期を境に、「NOTHING」や「Sherry」といったミドルテンポの曲の心地よさに気づくことになる。
バビロンツアーの明るい材料と言えば、2000年初めのツアーからサポートとして参加していたベースの 小林勝が追加公演の大阪城ホールを以って、正式メンバーとして加入することが発表されたことだろう。
これまで交代を繰り返してきたベースがようやく固まることになる。
余談だが、『BABYLON』リリース時に一定の売り上げ枚数を越えた場合、SADSの広告宣伝料を増加する条件を東芝EMIサイドから提示されていた。
結果的に、あと一歩のところで条件枚数に到達できなかったことを『清春35X』でのインタビューで語られている。
また、この年11月にリリースしたシングル「NIGHTMARE」は映画『漂流街』のオープニング、エンディング双方の主題歌となった。
(『漂流街』には清春に役者として出演のオファーもきていた)。
2002年は、風雲急を告げる事態で幕を開ける。
前年に契約を交わしたBMG JAPANとの契約を解消した。
このため、4thアルバム『“ ”(untitled)』はライブ会場限定販売とFC通信販売のみという、実質インディーズバンドとしての活動を余儀なくされる。
清春は、同アルバムを正規の流通網で販売しようと試みたが、同年のロングツアーに忙殺されてそれが出来なかったと後のインタビューで語っている。
2002年のツアー「TOUR GOOD-BYE 2002!! "BEAUTIFUL DAYS" FOR HEAVY PETTIING & FOR ENTERTAINMENT」は、2002年4月からの12月までライブハウス131公演 (HEAVY PETTIING) と翌年1月2月のホール10公演 (ENTERTAINMENT) まで続く、全141公演 (沖縄を除く46都道府県) という過去に例がないほどのロングツアーが組まれた。
同ツアーの目的は、「ライブの本数をこなしながらバンドとしての音を固めていく」 (清春談)、「3人がSADSに居ることが相応しいかどうかが問われる」 (坂下談) と、それぞれ目的があった。
快調に進むかに思われたが、ツアー序盤から早くもメンバーの技術的な問題が表面化する。
小林勝は「バンドの問題点について敢えて何も言わなかったが、それは失敗だった」と悔いていた。
注目すべき点は、この年から清春がアコースティックギターを本格的に始めた事である。
「Everything」や「Masquerade」、「憂鬱という名の夢」といった曲などでギターを弾きながら歌い始めている。
バンド内の問題やライブのマンネリ化に対し、日々ギターに触れることでそれを忘れることが出来、清春にとって癒しになっていたとDVD『131days』内のインタビューで語った。
ツアーも中盤に差し掛かった頃、満園が泥酔し、腕枕をしたまま眠りに落ちてしまい、左腕神経麻痺を発症する。
公演日程のキャンセル・振り替えを余儀なくされる。
(満園の一件で、当初予定されていた翌年の10公演は中止となる)。
当初は短期間で回復が見込まれると思われたが回復の目途が立たない為、急遽サポートメンバーとして舛岡圭司を迎えてツアーを再開する。
彼のスタイルは、豪快でパワフルな満園のそれとは対照的であり、彼から何かを学び得ようと、敢えて満園とタイプの異なるサポートメンバーを加えた背景があった。
満園が復帰するまでの約60本のライブを「外の庭、外の景色を観ていた」と清春は表現している。
また、満園の怪我による振り替え公演で数回行ったアコースティックライブを通して、清春自身は楽器としてのヴォーカルではない、歌を歌うことについて改めて考えさせられる。
この時期を境に、「NOTHING」や「Sherry」といったミドルテンポの曲の心地よさに気づくことになる。
2016/5/17(火)



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