CHAGE_and_ASKA
と Chage
チャゲ アンド アスカ CHAGE_and_ASKA |
CHAGE and ASKA(チャゲ・アンド・アスカ、朝: 차게 앤 아스카、簡: 恰克与飞鸟、繁: 恰克與飛鳥)は、日本の音楽ユニット。通称:チャゲアス。略表記:C&A。公式ファンクラブはTUG OF C&A。 |
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高校の同級生同士であったChageとASKAで結成し、1979年に「ひとり咲き」でデビュー 1980年に「万里の河」、1986年には「モーニングムーン」がヒット 1991年に「SAY YES」がオリコンチャート13週連続1位を獲得し、ダブルミリオンを記録 1992年にはアルバム『SUPER BEST II』もダブルミリオンを記録し、オリコンアルバム年間1位を獲得 シングルでは「if」がミリオンを記録 1993年に「YAH YAH YAH/夢の番人」がオリコン史上初となる同一歌手でシングル2作目のダブルミリオンを記録し、オリコンシングル年間1位を獲得 1994年には「HEART/NATURAL/On Your Mark」と「めぐり逢い」がミリオンを記録 自身初の海外ツアーを開催し、1996年にアジア出身者初の『MTV Unplugged』に出演して、2000年には韓国で日本人初の大規模ライブを行った。
ChageとASKAの出会いは高校時代からであり、ASKAが高校2年生の時に父親の仕事の関係で札幌から福岡へ転校したことがきっかけである:112。
2人が会話をしたのは高校3年生の時で、Chageが学園祭のために組んだバンドで練習をしていところ、隣の教室から、バンド演奏にも勝るようなASKAの大きい歌声が聞こえてきたという。
当時、高校内ではASKAは剣道の腕前が優れていることで有名であったため、ChageはASKAに「お前、剣道じゃなかったのか」と声をかけたという。
2人とも第一経済大学(現:日本経済大学)へ入学し、在学中にASKAはChageにヤマハ『第15回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)』への出場を声をかけ、別々で出場した。
同コンテスト福岡大会でChageがグランプリを獲得し、ASKAが最優秀歌唱賞となった。
九州大会へ進む際に、ヤマハの九州地区担当ディレクター・秋吉恵介の勧めにより初めてChageとASKAによるデュオが組まれた。
その後、7人編成のバンドチャゲと飛鳥として活動を始め、1978年10月開催の『第16回ポプコン』の直前にチャゲ&飛鳥となり、「流恋情歌」で念願の『つま恋本選会』に出場し入賞する:373。
1979年5月開催の『第17回ポプコン』には「ひとり咲き」で『つま恋本選会』に出場するが、またしてもグランプリ獲得にはならず入賞となった:373 しかしデビューの話は進行していき、7人編成のバンドとしてではなくChageとASKAのみでデビューという方向で話が進んでいった。
これで7人編成のバンドは解散となり、『第18回ポプコン』九州大会のゲスト出演という形で7人編成最後のステージを行った。
このライブでは、それまで未完成だった楽曲「歌いつづける」をバンドを去る5人への餞の曲として完成して披露した:114。
同年9月には3枚目シングル「万里の河」を発売 自身初となるオリコンチャートトップ10入りを果たし、50万枚を超えるヒットとなった:374,387 10月からは『学園祭コンサート』を開催した:374 1981年2月に2枚目アルバム『熱風』を発売した。
「万里の河」のヒットもあり、オリコンアルバムチャート1位を獲得 3月からは約60公演となるコンサートツアー『熱風』を開催した。
さらに8月には田園コロシアムで『The 夏祭り'81』を開催した。
10月には5枚目シングル「男と女」を発売した:375 1982年は1年を通して、ツアーの開催など多忙に活動を行い、シングルとアルバムは2枚ずつの発売となった:376 1983年も前年同様にコンサートツアーを積極的を開催し、その中でも9月に史上初めてとなる国立代々木競技場第一体育館をコンサート会場として使用した:377 1984年2月に10枚目シングル「MOON LIGHT BLUES」を発売した。
この当時、「ひとり咲き」や「万里の河」の路線イメージを脱却するため、打ち込みの音を利用するサウンドとなった。
しかし、所属レコード会社のワーナー・パイオニアは否定的であったことから2人との間に亀裂が入った。
3月から8月までコンサート『SUPER EVENT "INSIDE"』を開催した:378 4月にはChageが石川優子とコラボして発売した「ふたりの愛ランド」が45万枚を記録するヒットとなった。
1985年2月に12枚目シングル「誘惑のベルが鳴る」、13枚目シングル「オンリー・ロンリー」を2枚同時に発売 3月から12月にかけてコンサートツアー『SHAKIN' NIGHT』、福岡・大阪で『THE 夏祭り'85』を開催した。
開催中となる10月にレコード会社をキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)に移籍 ワーナー・パイオニアとの契約が完全に終了してから、移籍先を探してキャニオン・レコードへの移籍となった。
移籍後、初作品となるベスト・アルバム『Standing Ovation』を12月に発売した:378 1986年2月にはキャニオン・レコード移籍後初となった14枚目シングル「モーニングムーン」を発売した。
この年はシングル4枚、アルバム2枚、アナログ盤限定でミニアルバム1枚を発売し、コンサートも夏に横浜スタジアムで開催するなど、1年を通して精力的な活動を行った:380 1987年3月にはベスト・アルバム『SUPER BEST』を発売し、4月からは全国55箇所で全国ツアーを開催した。
9月にはASKAが当時使用していた飛鳥涼の名義で「MY Mr.LONELY HEART」を発売した:382 同年にChageとASKAは光GENJIへ楽曲提供を行い、シングルとしては「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「パラダイス銀河」がヒットした。
1988年2月には20枚目シングル「恋人はワイン色」が発売され、自身初のドラマ主題歌に起用された。
この年はシングル・アルバム共に2枚ずつ発売され、ASKAはソロ活動も並行に行われた。
5月から8月、10月から12月までは前年ツアーを開催している:383 デビュー10周年を迎える1989年となり、3月には23枚目シングル「WALK」、6月に24枚目シングル「LOVE SONG」を発売した。
デビュー日の8月25日には12枚目アルバム『PRIDE』を発売した。
1981年の『熱風』以来となるオリコンアルバムチャート1位を獲得した。
しかし、10月にChageは新しいバンドとなるMULTI MAXを結成し、ASKAは12月渡英したことでCHAGE and ASKAが活動休止となった:384 1990年4月にChageも渡英して、ASKAと合流してロンドンでレコーディングを始めた。
6月に2人が日本へ帰国後に25枚目シングル「DO YA DO」が発売され、1981年発売の「万里の河」以来となるオリコンチャートトップ10入りを果たした。
8月には13枚目アルバム『SEE YA』が発売され、50万枚を超える売上となった。
発売後にはアルバムを引っ提げ、全国60箇所でライブ『SEE YA』が1991年2月まで開催された:385-387。
1991年1月にアルバム『SEE YA』から26枚目シングル「太陽と埃の中で」をシングルカットして発売された。
シングルカットながらも50万枚を超える売上を記録:387 3月から6月まではChageがMULTI MAXとして、ASKAがソロの活動を行った。
特にASKAのソロ3枚目シングル「はじまりはいつも雨」がロングヒットとなり120万枚を記録した。
7月から2人がCHAGE and ASKAとして活動を始め、フジテレビ系列ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった27枚目シングル「SAY YES」を発売 オリコンチャートで13週連続1位を獲得し、累計では280万枚以上を売り上げて自身最大のヒット作品となった。
9月から全国ツアー『SAY YES』を開催し、10月には14枚目アルバム『TREE』を発売した。
当時の最高初週売上であった99万枚を記録し、累計で235万枚を記録 11月にはアルバムに収録されていた「僕はこの瞳で嘘をつく」を28枚目シングルとしてシングルカットして、80万枚を超える売上となった:387 1992年になり、3月から全国ツアー『CONCERT TOUR 1992 BIG TREE』が開催され、ベスト・アルバム『SUPER BEST II』が発売された。
270万枚を売り上げ、同年のオリコン年間アルバムランキングで1位を獲得:388 さらに第6回日本ゴールドディスク大賞では主要7部門中6部門受賞した。
6月にASKAが渡英、7月にChageが渡英してレコーディングが開始された。
その後、29枚目シングル「if」が発売され、110万枚を記録:400 10月には30枚目シングル「no no darlin'」を発売 11月には前述のシングルを収録した15枚目アルバム『GUYS』を発売。
140万枚を超える売上を記録した:400。
Chageは10月には帰国し、年末までMULTI MAXとして活動を行った:400。
1997年以降はChageはMULTI MAXとして、ASKAはソロを中心に活動を始めた:404-405。
5月に公式サイトでアルバム『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』がChageのライブツアーの5月18日以降の公演で、会場販売されることが発表された。
ASKAの逮捕の影響で、CHAGE and ASKA及びASKAのCD・DVD等は販売中止となり、廃盤状態になっていた。
また、ASKAの逮捕後にCHAGE and ASKAのCDが再発売されるのは今回が初めてである。
その後も順次に作品の再発売が発表され、7月にはアルバム『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』、11月には2000年より前に発売されたアルバムとシングルの配信が再開された。
さらに『VERY BEST ROLL OVER 20TH』に続き、『SUPER BEST II』『THE STORY of BALLAD』『THE STORY of BALLAD II』のCDの販売が再開された。
Chage、ASKA各々の自作曲をレパートリーとし、大半のシングル曲の作詞作曲はASKAが担当している。
メインボーカルは原則的に作曲者が担当するが、Chageが作曲、ASKAが作詞を手がけた楽曲や、初期の一部のChage曲ではASKAがメインボーカルを務めている。
デビュー当時はギターでの楽曲作りをしており、"演歌フォーク""大陸的なサウンド"などと評されていた。
しかし、デビュー5年目となる1984年頃から、キーボードやコンピュータなどを使った楽曲作りと変わり、ポップスやロック色が強まっていった。
1990年に発売されたアルバム『SEE YA』は、ロンドンで制作され、そして1991年に大ヒットとなる「SAY YES」が発売された。
このヒットにより、チャゲアスは「シンセサイザーを使ったロマンチックなバラードを歌うラブソングの旗手」というイメージが定着した。
なお、コンピュータでの打ち込みは小室哲哉が率いるTM NETWORKが最初とされているが、実際はチャゲアスの方が先にコンピュータでの打ち込みを始めている。
2006年9月に自身のアルバム21枚、Chageのアルバム1枚、ASKAのアルバム5枚、MULTI MAXのアルバム6枚がiTunes Storeにて全世界に配信された。
日本のメジャーアーティストが全アルバムを配信するのは初の試みである。
シングルは日本でのiTunes Storeが開始された2005年8月から配信されている。
CHAGE and ASKAの2人には人気、収入の格差などで不仲説が度々流れることがあるが、2人は高校からの付き合いでもあり、テレビ出演時に喧嘩は一度もないとChageもASKAもお互い不仲説を否定している。
1996年にチャゲアスの活動休止を発表し、翌年の1997年からお互いソロ活動が発表された際も、解散説がメディアによって流れた。
2009年の時の無期限活動休止の際は、2人の不仲説や音楽性の違いで解散するとメディアで流れた。
実際もChageとASKAで話し合い「中途半端で活動するなら解散しよう」と話しあっていた。
しかし、2人は色々と話を詰める内に「解散はやめよう」と決め活動休止を選んでいる。
ASKAも「50歳になると色々考える時期で、1人で作るとしたらどれくらいやれるのか今は興味があるけど、気持ちが乗ってきたら、チャゲアスをやろうという気持ちもある」と話している。
2019年にASKAは脱退を表明。
形式上はChage1人のグループという扱いになっているが、これによりグループは事実上の解散となった。
1990年代にテレビ等でChageとASKAのモノマネをする人が多く現れ、その中でもウッチャンナンチャンが自身の番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の企画「CHAKE&YASKA 栄光の軌跡」で、チャゲアスのモノマネを行い、チャゲアス本人達にも公認とされた。
ChageとASKAの出会いは高校時代からであり、ASKAが高校2年生の時に父親の仕事の関係で札幌から福岡へ転校したことがきっかけである:112。
2人が会話をしたのは高校3年生の時で、Chageが学園祭のために組んだバンドで練習をしていところ、隣の教室から、バンド演奏にも勝るようなASKAの大きい歌声が聞こえてきたという。
当時、高校内ではASKAは剣道の腕前が優れていることで有名であったため、ChageはASKAに「お前、剣道じゃなかったのか」と声をかけたという。
2人とも第一経済大学(現:日本経済大学)へ入学し、在学中にASKAはChageにヤマハ『第15回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)』への出場を声をかけ、別々で出場した。
同コンテスト福岡大会でChageがグランプリを獲得し、ASKAが最優秀歌唱賞となった。
九州大会へ進む際に、ヤマハの九州地区担当ディレクター・秋吉恵介の勧めにより初めてChageとASKAによるデュオが組まれた。
その後、7人編成のバンドチャゲと飛鳥として活動を始め、1978年10月開催の『第16回ポプコン』の直前にチャゲ&飛鳥となり、「流恋情歌」で念願の『つま恋本選会』に出場し入賞する:373。
1979年5月開催の『第17回ポプコン』には「ひとり咲き」で『つま恋本選会』に出場するが、またしてもグランプリ獲得にはならず入賞となった:373 しかしデビューの話は進行していき、7人編成のバンドとしてではなくChageとASKAのみでデビューという方向で話が進んでいった。
これで7人編成のバンドは解散となり、『第18回ポプコン』九州大会のゲスト出演という形で7人編成最後のステージを行った。
このライブでは、それまで未完成だった楽曲「歌いつづける」をバンドを去る5人への餞の曲として完成して披露した:114。
同年9月には3枚目シングル「万里の河」を発売 自身初となるオリコンチャートトップ10入りを果たし、50万枚を超えるヒットとなった:374,387 10月からは『学園祭コンサート』を開催した:374 1981年2月に2枚目アルバム『熱風』を発売した。
「万里の河」のヒットもあり、オリコンアルバムチャート1位を獲得 3月からは約60公演となるコンサートツアー『熱風』を開催した。
さらに8月には田園コロシアムで『The 夏祭り'81』を開催した。
10月には5枚目シングル「男と女」を発売した:375 1982年は1年を通して、ツアーの開催など多忙に活動を行い、シングルとアルバムは2枚ずつの発売となった:376 1983年も前年同様にコンサートツアーを積極的を開催し、その中でも9月に史上初めてとなる国立代々木競技場第一体育館をコンサート会場として使用した:377 1984年2月に10枚目シングル「MOON LIGHT BLUES」を発売した。
この当時、「ひとり咲き」や「万里の河」の路線イメージを脱却するため、打ち込みの音を利用するサウンドとなった。
しかし、所属レコード会社のワーナー・パイオニアは否定的であったことから2人との間に亀裂が入った。
3月から8月までコンサート『SUPER EVENT "INSIDE"』を開催した:378 4月にはChageが石川優子とコラボして発売した「ふたりの愛ランド」が45万枚を記録するヒットとなった。
1985年2月に12枚目シングル「誘惑のベルが鳴る」、13枚目シングル「オンリー・ロンリー」を2枚同時に発売 3月から12月にかけてコンサートツアー『SHAKIN' NIGHT』、福岡・大阪で『THE 夏祭り'85』を開催した。
開催中となる10月にレコード会社をキャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)に移籍 ワーナー・パイオニアとの契約が完全に終了してから、移籍先を探してキャニオン・レコードへの移籍となった。
移籍後、初作品となるベスト・アルバム『Standing Ovation』を12月に発売した:378 1986年2月にはキャニオン・レコード移籍後初となった14枚目シングル「モーニングムーン」を発売した。
この年はシングル4枚、アルバム2枚、アナログ盤限定でミニアルバム1枚を発売し、コンサートも夏に横浜スタジアムで開催するなど、1年を通して精力的な活動を行った:380 1987年3月にはベスト・アルバム『SUPER BEST』を発売し、4月からは全国55箇所で全国ツアーを開催した。
9月にはASKAが当時使用していた飛鳥涼の名義で「MY Mr.LONELY HEART」を発売した:382 同年にChageとASKAは光GENJIへ楽曲提供を行い、シングルとしては「STAR LIGHT」「ガラスの十代」「パラダイス銀河」がヒットした。
1988年2月には20枚目シングル「恋人はワイン色」が発売され、自身初のドラマ主題歌に起用された。
この年はシングル・アルバム共に2枚ずつ発売され、ASKAはソロ活動も並行に行われた。
5月から8月、10月から12月までは前年ツアーを開催している:383 デビュー10周年を迎える1989年となり、3月には23枚目シングル「WALK」、6月に24枚目シングル「LOVE SONG」を発売した。
デビュー日の8月25日には12枚目アルバム『PRIDE』を発売した。
1981年の『熱風』以来となるオリコンアルバムチャート1位を獲得した。
しかし、10月にChageは新しいバンドとなるMULTI MAXを結成し、ASKAは12月渡英したことでCHAGE and ASKAが活動休止となった:384 1990年4月にChageも渡英して、ASKAと合流してロンドンでレコーディングを始めた。
6月に2人が日本へ帰国後に25枚目シングル「DO YA DO」が発売され、1981年発売の「万里の河」以来となるオリコンチャートトップ10入りを果たした。
8月には13枚目アルバム『SEE YA』が発売され、50万枚を超える売上となった。
発売後にはアルバムを引っ提げ、全国60箇所でライブ『SEE YA』が1991年2月まで開催された:385-387。
1991年1月にアルバム『SEE YA』から26枚目シングル「太陽と埃の中で」をシングルカットして発売された。
シングルカットながらも50万枚を超える売上を記録:387 3月から6月まではChageがMULTI MAXとして、ASKAがソロの活動を行った。
特にASKAのソロ3枚目シングル「はじまりはいつも雨」がロングヒットとなり120万枚を記録した。
7月から2人がCHAGE and ASKAとして活動を始め、フジテレビ系列ドラマ『101回目のプロポーズ』の主題歌となった27枚目シングル「SAY YES」を発売 オリコンチャートで13週連続1位を獲得し、累計では280万枚以上を売り上げて自身最大のヒット作品となった。
9月から全国ツアー『SAY YES』を開催し、10月には14枚目アルバム『TREE』を発売した。
当時の最高初週売上であった99万枚を記録し、累計で235万枚を記録 11月にはアルバムに収録されていた「僕はこの瞳で嘘をつく」を28枚目シングルとしてシングルカットして、80万枚を超える売上となった:387 1992年になり、3月から全国ツアー『CONCERT TOUR 1992 BIG TREE』が開催され、ベスト・アルバム『SUPER BEST II』が発売された。
270万枚を売り上げ、同年のオリコン年間アルバムランキングで1位を獲得:388 さらに第6回日本ゴールドディスク大賞では主要7部門中6部門受賞した。
6月にASKAが渡英、7月にChageが渡英してレコーディングが開始された。
その後、29枚目シングル「if」が発売され、110万枚を記録:400 10月には30枚目シングル「no no darlin'」を発売 11月には前述のシングルを収録した15枚目アルバム『GUYS』を発売。
140万枚を超える売上を記録した:400。
Chageは10月には帰国し、年末までMULTI MAXとして活動を行った:400。
1997年以降はChageはMULTI MAXとして、ASKAはソロを中心に活動を始めた:404-405。
5月に公式サイトでアルバム『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』がChageのライブツアーの5月18日以降の公演で、会場販売されることが発表された。
ASKAの逮捕の影響で、CHAGE and ASKA及びASKAのCD・DVD等は販売中止となり、廃盤状態になっていた。
また、ASKAの逮捕後にCHAGE and ASKAのCDが再発売されるのは今回が初めてである。
その後も順次に作品の再発売が発表され、7月にはアルバム『CHAGE&ASKA VERY BEST ROLL OVER 20TH』、11月には2000年より前に発売されたアルバムとシングルの配信が再開された。
さらに『VERY BEST ROLL OVER 20TH』に続き、『SUPER BEST II』『THE STORY of BALLAD』『THE STORY of BALLAD II』のCDの販売が再開された。
Chage、ASKA各々の自作曲をレパートリーとし、大半のシングル曲の作詞作曲はASKAが担当している。
メインボーカルは原則的に作曲者が担当するが、Chageが作曲、ASKAが作詞を手がけた楽曲や、初期の一部のChage曲ではASKAがメインボーカルを務めている。
デビュー当時はギターでの楽曲作りをしており、"演歌フォーク""大陸的なサウンド"などと評されていた。
しかし、デビュー5年目となる1984年頃から、キーボードやコンピュータなどを使った楽曲作りと変わり、ポップスやロック色が強まっていった。
1990年に発売されたアルバム『SEE YA』は、ロンドンで制作され、そして1991年に大ヒットとなる「SAY YES」が発売された。
このヒットにより、チャゲアスは「シンセサイザーを使ったロマンチックなバラードを歌うラブソングの旗手」というイメージが定着した。
なお、コンピュータでの打ち込みは小室哲哉が率いるTM NETWORKが最初とされているが、実際はチャゲアスの方が先にコンピュータでの打ち込みを始めている。
2006年9月に自身のアルバム21枚、Chageのアルバム1枚、ASKAのアルバム5枚、MULTI MAXのアルバム6枚がiTunes Storeにて全世界に配信された。
日本のメジャーアーティストが全アルバムを配信するのは初の試みである。
シングルは日本でのiTunes Storeが開始された2005年8月から配信されている。
CHAGE and ASKAの2人には人気、収入の格差などで不仲説が度々流れることがあるが、2人は高校からの付き合いでもあり、テレビ出演時に喧嘩は一度もないとChageもASKAもお互い不仲説を否定している。
1996年にチャゲアスの活動休止を発表し、翌年の1997年からお互いソロ活動が発表された際も、解散説がメディアによって流れた。
2009年の時の無期限活動休止の際は、2人の不仲説や音楽性の違いで解散するとメディアで流れた。
実際もChageとASKAで話し合い「中途半端で活動するなら解散しよう」と話しあっていた。
しかし、2人は色々と話を詰める内に「解散はやめよう」と決め活動休止を選んでいる。
ASKAも「50歳になると色々考える時期で、1人で作るとしたらどれくらいやれるのか今は興味があるけど、気持ちが乗ってきたら、チャゲアスをやろうという気持ちもある」と話している。
2019年にASKAは脱退を表明。
形式上はChage1人のグループという扱いになっているが、これによりグループは事実上の解散となった。
1990年代にテレビ等でChageとASKAのモノマネをする人が多く現れ、その中でもウッチャンナンチャンが自身の番組『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』(フジテレビ系)の企画「CHAKE&YASKA 栄光の軌跡」で、チャゲアスのモノマネを行い、チャゲアス本人達にも公認とされた。
2023/10/28(土)



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