志村けん
と 変なおじさん
しむらけん 志村けん |
志村 けん(しむら けん、1950年〈昭和25年〉2月20日 - 2020年〈令和2年〉3月29日)は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。 ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続けた。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに移籍し、同じくザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後も籍を残している。 1973年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。 |
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父が厳格な人物で家庭に笑いがなかったため逆に笑いにすごく飢えていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才や落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来たという 『変なおじさん【完全版】』「テレビで一番覚えているのは、雲の上団五郎一座の舞台中継だ 三木のり平さんと八波むと志さんの「切られ与三郎」の場面がすごくおかしくて」 このためこの時間だけが志村が家でくつろげた時間であった。
志村によれば「お笑い番組を観ている時だけは、親父も声を出して笑っていた」と語っており、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。
志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えられないと思っていたという 校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。
その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。
この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。
1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。
トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。
当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。
「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。
しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。
日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド(蚊取り線香のCM)でも知名度が高い また、イランの政府高官は駐日イラン大使館の在留大使時に志村のコントを見て大ファンになり、帰国後「国賓として招きたい」と言ったり、テヘランのレンタルビデオショップには志村の特設コーナーもある。
台湾の蔡英文総統は志村の死去時、自身のツイッターに追悼文を日本語で投稿した。
さらに、在日外国人に最も人気が高いタレントの1人とも言われ、六本木で出会ったアメリカ兵から「お前はアメリカに行くべきだ 俺の部隊の連中は、みんなお前が大好きだ」と言われたこともあるエッセイ『変なおじさん』によると、志村に限らずドリフのコントは言葉よりも動きによる笑いに重点を置いていたため、日本語のあまり通じない外国人にも受けが良かったとのこと これと同様のことは、いかりやの自伝『だめだこりゃ』でも説明されている。
。
父・憲司は小学校教諭で、教頭まで昇進してからは校長への昇進を目指して日々勉強に励んでいた。
志村が小学校時代に給食費を滞納し、中学校に上がってからそのことを知った際には厳しく叱ったという。
しかし、志村が中学生だった1962年に自宅前で交通事故に遭い負傷する。
その時は大事には至っていない様子であったが、事故から3年後、志村が夕飯ができたので書斎に呼びに行ったところ、「どちら様ですか?」と聞かれたため、志村は驚いたという 志村によると、この時の憲司は脳内出血による記憶喪失となっており、志村がドリフの付き人になろうと決意した頃には、物事の判断がほとんど出来なかった為、志村が実際にドリフの付き人になった時にも、憲司は反対しなかったとの事 志村の爺さんコントは「この時期の父親をモデルにしたもの」であると、自身の著書『変なおじさん』にて明言している。
憲司は47歳の時に学校を休職し、その後は町を徘徊したり、妻(志村の母)に乱暴をするなどの行動を取るようになっていた。
そして、志村が正式にドリフのメンバーになる前の年である1973年に54歳で亡くなった。
志村はテレビの収録直前、母・和子から電話で一報を知らされて駆け付けたが、「(亡くなった父の)顔を見ることは出来なかった」と振り返っている。
付き人時代に同棲していた女性とは婚姻に至る前に子供を授かったが、周囲の反対でその女性と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その子供は女性と相談の上で諦めたとのこと)。
また、3年間の同棲の果てに内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは特に結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。
また、日本航空にスチュワーデスの愛人が複数いると報じられたこともある。
さらに大のキャバクラ好きでもある。
このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手である為、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めていた。
『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した。
使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した。
『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。
早食いはしていない。
様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。
なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。
また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
志村によれば「お笑い番組を観ている時だけは、親父も声を出して笑っていた」と語っており、その体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。
志村が中学生だった頃の父は教員として毎日決まった時間に職場に行って帰ってくる生活をしており、そんな生活は耐えられないと思っていたという 校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、志村はそれを「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。
その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。
この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。
1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。
トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。
当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。
「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。
しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。
日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド(蚊取り線香のCM)でも知名度が高い また、イランの政府高官は駐日イラン大使館の在留大使時に志村のコントを見て大ファンになり、帰国後「国賓として招きたい」と言ったり、テヘランのレンタルビデオショップには志村の特設コーナーもある。
台湾の蔡英文総統は志村の死去時、自身のツイッターに追悼文を日本語で投稿した。
さらに、在日外国人に最も人気が高いタレントの1人とも言われ、六本木で出会ったアメリカ兵から「お前はアメリカに行くべきだ 俺の部隊の連中は、みんなお前が大好きだ」と言われたこともあるエッセイ『変なおじさん』によると、志村に限らずドリフのコントは言葉よりも動きによる笑いに重点を置いていたため、日本語のあまり通じない外国人にも受けが良かったとのこと これと同様のことは、いかりやの自伝『だめだこりゃ』でも説明されている。
。
父・憲司は小学校教諭で、教頭まで昇進してからは校長への昇進を目指して日々勉強に励んでいた。
志村が小学校時代に給食費を滞納し、中学校に上がってからそのことを知った際には厳しく叱ったという。
しかし、志村が中学生だった1962年に自宅前で交通事故に遭い負傷する。
その時は大事には至っていない様子であったが、事故から3年後、志村が夕飯ができたので書斎に呼びに行ったところ、「どちら様ですか?」と聞かれたため、志村は驚いたという 志村によると、この時の憲司は脳内出血による記憶喪失となっており、志村がドリフの付き人になろうと決意した頃には、物事の判断がほとんど出来なかった為、志村が実際にドリフの付き人になった時にも、憲司は反対しなかったとの事 志村の爺さんコントは「この時期の父親をモデルにしたもの」であると、自身の著書『変なおじさん』にて明言している。
憲司は47歳の時に学校を休職し、その後は町を徘徊したり、妻(志村の母)に乱暴をするなどの行動を取るようになっていた。
そして、志村が正式にドリフのメンバーになる前の年である1973年に54歳で亡くなった。
志村はテレビの収録直前、母・和子から電話で一報を知らされて駆け付けたが、「(亡くなった父の)顔を見ることは出来なかった」と振り返っている。
付き人時代に同棲していた女性とは婚姻に至る前に子供を授かったが、周囲の反対でその女性と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その子供は女性と相談の上で諦めたとのこと)。
また、3年間の同棲の果てに内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは特に結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。
また、日本航空にスチュワーデスの愛人が複数いると報じられたこともある。
さらに大のキャバクラ好きでもある。
このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手である為、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めていた。
『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した。
使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した。
『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。
早食いはしていない。
様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。
なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。
また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
2023/4/21(金)



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