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とんねるず タモリ

とんねるず
とんねるず
とんねるず(TUNNELS)は、石橋貴明と木梨憲武からなる日本のお笑いコンビ、歌手。 1980年結成、所属事務所は石橋がアライバル、木梨がコッカ。レコード会社はポニーキャニオン。



2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。
漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。
デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。
そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。
また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。
木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。
また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。
また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。
フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。
『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された。
その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった。
なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった。
しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。
BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。
島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている。
紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある。
2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。
とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した。
この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった。
タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている。
またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している。
このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した。
その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている。
2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。
2014年にレギュラーに。
『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。
以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。
1月14日(火曜日)放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演 その中でタモリに直訴し、番組レギュラーになった。
なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した。
1月23日(木曜日)放送にて、木梨がレギュラー初出演。
笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。
総合司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである。
1月29日(水曜日)放送にて、石橋がレギュラー初出演。
水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。
「爆笑問題」太田光より「転校生を紹介します 帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ。
2月6日(木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。
歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演 『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである。
2月14日(金曜日)放送にて、石橋が2度目の出演。
タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね 金曜日 俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった。
2月18日(火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。
木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。
ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の野澤祐樹に扮し登場した。
3月7日(金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。
今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。
3月13日(木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。
タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
3月18日(火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。
インフルエンザで欠席のバナナマンの日村勇紀に代わり、コーナーの司会をした。
1989年1月30日放送の『大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。
司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。
またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。
お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。
これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。
とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。
これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。
これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。
これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
2023/3/24(金)
2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。

『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。

BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている 紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある 2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。

とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている 2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。

2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。
1月14日(火曜日)放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演 その中でタモリに直訴し、番組レギュラーになった なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した。
1月23日(木曜日)放送にて、木梨がレギュラー初出演。笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。総合司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである。
1月29日(水曜日)放送にて、石橋がレギュラー初出演。水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。「爆笑問題」太田光より「転校生を紹介します 帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ。
2月6日(木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演 『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである。
2月14日(金曜日)放送にて、石橋が2度目の出演。タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね 金曜日 俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった。
2月18日(火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の野澤祐樹に扮し登場した。
3月7日(金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。
3月13日(木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
3月18日(火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。インフルエンザで欠席のバナナマンの日村勇紀に代わり、コーナーの司会をした。
1989年1月30日放送の『大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。

お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。

『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。

BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている 紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある 2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。

とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている 2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。

2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。
1月14日(火曜日)放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演 その中でタモリに直訴し、番組レギュラーになった なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した。
1月23日(木曜日)放送にて、木梨がレギュラー初出演。笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。総合司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである。
1月29日(水曜日)放送にて、石橋がレギュラー初出演。水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。「爆笑問題」太田光より「転校生を紹介します 帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ。
2月6日(木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演 『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである。
2月14日(金曜日)放送にて、石橋が2度目の出演。タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね 金曜日 俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった。
2月18日(火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の野澤祐樹に扮し登場した。
3月7日(金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。
3月13日(木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
3月18日(火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。インフルエンザで欠席のバナナマンの日村勇紀に代わり、コーナーの司会をした。
1989年1月30日放送の『大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。

お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
2人とも幼少時からテレビ好きであり、特に『8時だョ!全員集合』のザ・ドリフターズをはじめ『カックラキン大放送!!』の堺正章・井上順・ラビット関根や、「ベンジャミン伊東」の伊東四朗、「小松の親分」の小松政夫、萩本欽一(コント55号)、密室芸人時代のタモリなど漫才ブーム以前のバラエティ番組全盛の時代の影響が強い。漫才ブームの時期は共に部活動で多忙を極めていた事もあり、ビートたけし(ツービート)以外に受けた影響は少ない。

デビュー当初は喜劇俳優である由利徹と絡む事が多く、共演時のとんねるずは素人時代に戻ったかのように彼の芸を心から笑ってしまう場面も多々あり、前にあまり出る事はしなかった(時代背景としてあまり前に出られなかった環境でもあった)。そのほか若手の時代には、由利徹やクレイジーキャッツのハナ肇、植木等らのエンターテイナーや喜劇俳優、美空ひばりや堺正章・タモリらには公私共に可愛がられていた。また、一時期からは共演NGも噂されたが、若手時代には明石家さんまとも「兄貴」と呼ぶほど親交が公私にわたって存在し、さんまと木梨は現在でもゴルフをする仲である。木梨は所ジョージや志村けんといったのちのお笑い界の大御所と呼ばれる人々とも親密な関係である。また、笑福亭鶴瓶と木梨は一時期毎週のように遊ぶ関係であったが、意外にも若手時代は親密というほどの関係ではない。また、とんねるず飛躍の要因の一つとして、業界の裏方の実力者とも若手時代から特に石橋が親交を築いた。フジテレビの名物プロデューサーの石田弘をはじめとする港浩一などの通称石田班、秋元康・テリー伊藤などは若手時代から深い繋がりを持った。

『オールナイトフジ』 - 『夕やけニャンニャン』などいわゆる石田班の看板的存在になっていたため、当時確執があった横澤彪率いる横澤班の本丸的な番組であった『オレたちひょうきん族』に「一気!」で「ひょうきんベストテン」に出演した際、ひょうきん族レギュラー陣にリンチに等しい、過激なリアクションを課された その際に2人は「もう日テレには出ないから勘弁してくれ」と漏らしており、日本テレビの出演解禁により蜜月のフジテレビとの関係が冷えることを危惧した石田が、横澤にとんねるずの出演を派閥の壁を越えて懇願し実現した出演であった なお当時石田班、横澤班両方の番組に出演できたタレントは、片岡鶴太郎ら数人しかおらずこの派閥争いにより横澤班の代表番組の1つで若手タレントの登竜門的な存在である『笑っていいとも!』のレギュラーにはなれなかった しかし石田・横澤とも第一線から退いた2014年(横澤は2011年死去)、29年ぶりに『笑っていいとも!』へ出演した際にタモリに対して直訴、番組終了まで念願のレギュラーとなっている。

BIG3(タモリ・ビートたけし・明石家さんま)や笑福亭鶴瓶、所ジョージ、関根勤といったお笑い第二世代との共演は比較的多い。島田紳助との共演はあまりなく、これは紳助が『26時間テレビ』内で放送された『笑っていいとも!増刊号』の「テレフォンショッキング」にゲスト出演した際に語っている 紳助とは『オレたちひょうきん族』や『歌のトップテン』などで頻度は少なかったものの共演経験はある 2000年代以降、さんまと共演することもほとんどなくなっていたが、2014年3月31日放送の『笑っていいとも! グランドフィナーレ 感謝の超特大号』で約15年ぶりの共演を果たした。

とんねるずが素人時代に『お笑いスター誕生!!』へ出演した際、審査員からの評価は芳しくなかったが審査員の1人であったタモリは「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評した この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人の赤塚不二夫だけだった タモリに誘われて『タモリのオールナイトニッポン』の見学にとんねるずが行った際、このままお笑い芸人として本格的に活動するべきかどうかタモリに相談を持ちかけて、「やりたかったらやってみればいい」というタモリの言葉に後押しされて本格的にプロの道を進む決心をしたという ブレイク後も『笑っていいとも!』や『ミュージックステーション』といったタモリの冠番組にゲスト出演する機会が多く、2007年10月4日放送の『とんねるずのみなさんのおかげでした』でタモリと共演した際には、「タモさんがお笑いスター誕生の審査員じゃなかったら僕たちはこの世に出てなかった」と語っている またその話を聞いたタモリは、『(ここまで伸びるとは思わなかったから)あの時つぶしとけばよかった』とユーモアをこめて話している このときの対戦相手は松田聖子で、勝負に負け罰ゲームで約30年ぶりにイグアナとコンドルの着地のものまねを披露した その後、木梨は2008年に『オールナイトニッポン40周年SP・タモリのオールナイトニッポン』にゲスト出演をしたり、タモリの誕生日のお祝いもしている 2014年1月14日、『笑っていいとも!』放送8000回のゲストでコンビとして29年ぶりに出演し、放送終了の3月までの不定曜日レギュラーを務めた。

2014年にレギュラーに。『笑っていいとも!』が終了する直前でもある。以降、石橋、木梨共に出演中(番組終了までの記録)。
1月14日(火曜日)放送にて、名物コーナー「テレフォンショッキング」に黒柳徹子が1984年3月に記録した46分を上回る48分22秒出演 その中でタモリに直訴し、番組レギュラーになった なお、その未公開シーン(19日)で、「(残り)10週なんで、2人で5週ずつ」と宣言した。
1月23日(木曜日)放送にて、木梨がレギュラー初出演。笑福亭鶴瓶が話そうとした瞬間にスタジオの天井からワイヤで降下し、彼の首を絞め上げるというドッキリの形で登場シーンで木梨が登場した。総合司会のタモリによると、(この登場方法は)いいとも史上初めて、とのことである。
1月29日(水曜日)放送にて、石橋がレギュラー初出演。水曜日のレギュラーコーナーに次々と参加した。「爆笑問題」太田光より「転校生を紹介します 帝京高校をタバコを吸って退学になった石橋貴明君です」と紹介、それに対し「迷惑かけないようにします」とあいさつ。
2月6日(木曜日)放送にて、木梨が3度目の出演。歌手の郷ひろみも出演のテレフォンショッキングのコーナーで、「お嫁サンバ」のブラジルサンバの踊り子に紛れ込んで木梨が3度目の出演 『郷は「実は2日前にのりちゃんに電話して…」というと「手伝えって電話が来た」と木梨が返し「2日間打ち合わせしました」』ということである。
2月14日(金曜日)放送にて、石橋が2度目の出演。タモリが「貴明、金曜日はどう?」と質問すると「いいですね 金曜日 俺、金曜日にします」と金曜日出演が決まった。
2月18日(火曜日)放送にて、木梨が4度目の出演。木梨の仮面をかぶった10人の中から本物を当てるクイズを実施。ところが、そこにはおらず、実際には「noon boyz」の野澤祐樹に扮し登場した。
3月7日(金曜日)放送にて、木梨が5度目の出演。今回は木梨がスタジオではなくハワイからの中継で出演した。
3月13日(木曜日)放送にて、石橋が4度目の出演。タモリ(福岡)、鶴瓶(大阪)、石橋の3人のフリートークコーナーの東京都代表として出演していた。
3月18日(火曜日)放送にて、石橋が5度目の出演。インフルエンザで欠席のバナナマンの日村勇紀に代わり、コーナーの司会をした。
1989年1月30日放送の『大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル』では、他の出演者がオリジナルソング(番組内では『お祝いの歌』と表す)を普通に歌っていたのに対して、木梨が『仮面ノリダーぶっとばすぞのテーマ』の1番の歌詞に変えて歌い始めてしまい、会場からは大爆笑が巻き起こった。司会の芳村真理は、もう一度歌うよう促すも、その後木梨はアドリブの替え歌を歌い出し、会場を盛り上げた。またこのとき石橋が、番組のビッグバンドからエレキギターを借り、弾く真似をしたため、もう一人の司会であったタモリからは「ギターの弦が切れた」と伝えられた。

お笑いタレントがバラエティ番組の中で出演アイドルを面と向かって呼び捨てにする場面は、礼儀として、また業界の暗黙のルールとしても“御法度”だった。これは旧世代の芸人/漫才師のあり方に由来する。とんねるずが台頭するまでの1980年代前半以前のお笑い芸人の仕事は演歌歌手の前座が多く、正月の隠し芸大会などでもあくまで歌手や人気アイドルを引き立てる幇間であり、「歌手のおかげで食べさせてもらえる」という色物意識が強かった時代の名残である。これは、萩本欽一、タモリ、ビートたけしでさえも、誰かを呼び捨てにするのは、本やラジオ、テレビの各メディアで本人がいない場所に限られていた。これは明石家さんまを含めた漫才ブーム系芸人でも同様に守られており、呼び捨てはあくまでも芸人の先輩後輩や仲間の“同業者間”でのみ許されるものだった。これを侵せば業界から抹殺されかねないほどの約束事とも言え、対スポーツ選手でもこれは同様だった。
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