明石家さんま
と 笑っていいとも
あかしや さんま 明石家さんま |
明石家 さんま(あかしや さんま、1955年〈昭和30年〉7月1日 - )は、日本のお笑いタレント、テレビ司会者。本名は杉本 高文(すぎもと たかふみ)。番組企画や構成等では、本名名義でクレジットされることもある。吉本興業所属。 和歌山県東牟婁郡古座町(現在の串本町)生まれ、奈良県奈良市出身。 落語家を志して2代目笑福亭松之助の弟子となり、高座名・笑福亭さんまとしてデビューするが、師匠の推薦でタレントに転向し、屋号を明石家に変えた。その後は1970年代後半から現在まで芸能界の第一線で活躍を続けている国民的お笑いスターの1人であり、ビートたけし・タモリと並び日本の「お笑いBIG3」と称される。 |
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東京での初仕事は1978年のフジテレビの正月特番の「はつもうで、三枝の爆笑ヒットパレード」だった。
そして、この番組に出演した際に当番組プロデューサーだった横澤彪と出会い、「スター千一夜」に出演するなど、その後横澤が担当した多くの番組に重用される事になる。
同じ頃の1979年10月にはニッポン放送で「明石家さんまのオールナイトニッポン」などレギュラーをもつなど徐々に東京にも進出しはじめ、1980年代に入ると、漫才ブームに乗っかって「THE MANZAI」等に出演して、春風亭小朝と即興漫才を披露したり、1980年放送開始の「笑ってる場合ですよ!」でレギュラーとなる。
そして1981年にスタートした「オレたちひょうきん族」へのレギュラー出演 同年放送スタートの「さんまのサタデーナイトショー」(テレビ東京)で、冠番組を獲得している。
1984年4月からは「笑ってる場合ですよ!」の後番組の「笑っていいとも!」にも金曜日にレギュラー出演するなど、大阪中心から東京中心に活躍の場を移していくとともに、当時はまだまだ下に見られていた東京での大阪芸人としての地位を築いていく 東京での初めてのドラマ出演は1980年10月からTBS系列で半年間放送した「天皇の料理番」だった。
1989年10月で『ひょうきん族』が放送終了すると同時に、しばらくは育児に専念するために仕事をセーブするようになり、全国ネットのレギュラー番組も『笑っていいとも』金曜日、『さんまのまんま』、『あっぱれさんま大先生』のみとなり、ゴールデン帯のレギュラー番組が一時期なくなっていた。
また1991年にはOVA『リリが見たやさしい虹』を原案および声優(ジョー役)として参加(リリ役は大竹しのぶ) また絵本としてもさんま名義で出版(ストーリーは脚本家の君塚良一が作っていた)するなど家庭的なイメージを見せていたが、しかしそれにより5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』で15位にまで急落するなど、一時的に人気に陰りが見えていた。
1995年夏、テレビ朝日系列で『明石家さんま超世界紀行~緑の大地モンゴルに夢を追った少年とさんまの物語』で苦手と公言していた紀行番組に挑戦しモンゴルでロケ敢行 しかし後に広い草原を横断するあまりの過酷なロケに、もう二度としたくないと振り返っていた。
また同じ頃には番組スタッフの確執をきっかけに1995年9月をもって、金曜レギュラーとして11年半出演した『笑っていいとも!』を降板(ただし、その後も2014年3月の番組終了まで定期的にゲストとして出演していた)。
学生時代には吉田拓郎の大ファンであり、人生の一曲として吉田拓郎の代表曲である『イメージの詩』を挙げている。
その他では桑田佳祐・アルフィー・松任谷由実・松山千春・CHAGE and ASKA・甲斐バンド・オフコースさんまが笑っていいとものテレフォンショッキングに最初に出演した際に次に紹介した相手が、かねてからタモリが嫌いと公言してた小田和正だった。
などと20代の頃より親交があり、実際にアルバムCMに出たり、楽曲を提供したりもらったりしている。
2000年代以降の歌手ならMISIAなどと親交をもち、NETFLIXの「Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜」の主題歌としてMISIAがさんまのお気に入りでもある甲斐バンドの楽曲『最後の夜汽車』をカバーした。
どちらかというとメロディよりも歌詞に重きを置いているようで、近年では大塚愛の『さくらんぼ』、森高千里の『渡良瀬橋』、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』、西野カナの『Darling』のようなかわいい歌詞を好んでいる。
さんまが一番好きだったキャラクターはブラックデビル。
ビートたけしがさんまのキャラで一番好きだったものは「サラリーマン」である。
このサラリーマンはスーツにネクタイ、メガネといったありきたりの風貌で「高卒、手取り18万」という境遇でタケちゃんマンに難癖をつけて絡むというキャラクターだったが、視聴者から「夢がない」と苦情が入り、さらには、子どもたちにも不人気だったことが災いして、わずが3週で打ち切りとなった。
フライデー襲撃事件でたけし不在となっていた時期、吉永小百合の「奈良の春日野」をバックに鹿の着ぐるみを着て、渡辺正行と踊っていた。
1987年に『笑っていいとも!』のトークコーナーで、吉永のファンであるタモリをいじるため、楽曲中に「鹿のふん」という吉永のイメージらしからぬ歌詞が出てくる同曲を発掘・放送し、大きな話題になったことを流用したもの。
番組開始当初のコーナー「ひょうきんニュース」には本名の「杉本高文」を名乗っていた。
また、「ひょうきんベストテン」の初代司会者でもあった。
*1997年12月11日木曜日に「テレフォンショッキング」に、前妻である大竹しのぶの紹介でゲスト出演 前日の電話の際には大竹に対し「俺、お前の友達ちゃうやろ!」と発言した。
以後同番組への出演はなかったが、自身が総合司会を務めた2008年7月の『FNS27時間テレビ』内の「増刊号生スペシャル」にて行われた「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で登場、タモリと約47分間のフリートークを繰り広げた。
当日の新聞のラテ欄には「タモリとテレフォンショッキングで最長記録樹立か」と書かれていたが、その言葉通り「増刊号生スペシャル」も含めた全てのテレフォンショッキングの中で最長記録を樹立した一般には「増刊号生スペシャル」のテレフォンショッキングは時間制限がないことから記録に含めないため、最長記録は黒柳徹子が記録した43分となっている。
。
*2008年7月27日日曜日には自身が総合司会を担当した「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」内コーナー・さんま in 笑っていいとも!「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で出演 その他のコーナーには参加しなかったが、いいとも!としての出演は11年ぶりのこととなった。
CM明けに先述のレギュラー時代のコーナー「最低男」のジングルが流された。
後輩のFUJIWARAを紹介した。
*2009年7月24日金曜日の「テレフォンショッキング」にもしずちゃんの紹介で出演。
この時さんまは友達として次回のテレフォンゲストに同年の第23回FNSの日『FNSの日26時間テレビ2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』総合司会の島田紳助を紹介した。
そして、この番組に出演した際に当番組プロデューサーだった横澤彪と出会い、「スター千一夜」に出演するなど、その後横澤が担当した多くの番組に重用される事になる。
同じ頃の1979年10月にはニッポン放送で「明石家さんまのオールナイトニッポン」などレギュラーをもつなど徐々に東京にも進出しはじめ、1980年代に入ると、漫才ブームに乗っかって「THE MANZAI」等に出演して、春風亭小朝と即興漫才を披露したり、1980年放送開始の「笑ってる場合ですよ!」でレギュラーとなる。
そして1981年にスタートした「オレたちひょうきん族」へのレギュラー出演 同年放送スタートの「さんまのサタデーナイトショー」(テレビ東京)で、冠番組を獲得している。
1984年4月からは「笑ってる場合ですよ!」の後番組の「笑っていいとも!」にも金曜日にレギュラー出演するなど、大阪中心から東京中心に活躍の場を移していくとともに、当時はまだまだ下に見られていた東京での大阪芸人としての地位を築いていく 東京での初めてのドラマ出演は1980年10月からTBS系列で半年間放送した「天皇の料理番」だった。
1989年10月で『ひょうきん族』が放送終了すると同時に、しばらくは育児に専念するために仕事をセーブするようになり、全国ネットのレギュラー番組も『笑っていいとも』金曜日、『さんまのまんま』、『あっぱれさんま大先生』のみとなり、ゴールデン帯のレギュラー番組が一時期なくなっていた。
また1991年にはOVA『リリが見たやさしい虹』を原案および声優(ジョー役)として参加(リリ役は大竹しのぶ) また絵本としてもさんま名義で出版(ストーリーは脚本家の君塚良一が作っていた)するなど家庭的なイメージを見せていたが、しかしそれにより5年連続して1位だったNHKの『好きなタレント調査』で15位にまで急落するなど、一時的に人気に陰りが見えていた。
1995年夏、テレビ朝日系列で『明石家さんま超世界紀行~緑の大地モンゴルに夢を追った少年とさんまの物語』で苦手と公言していた紀行番組に挑戦しモンゴルでロケ敢行 しかし後に広い草原を横断するあまりの過酷なロケに、もう二度としたくないと振り返っていた。
また同じ頃には番組スタッフの確執をきっかけに1995年9月をもって、金曜レギュラーとして11年半出演した『笑っていいとも!』を降板(ただし、その後も2014年3月の番組終了まで定期的にゲストとして出演していた)。
学生時代には吉田拓郎の大ファンであり、人生の一曲として吉田拓郎の代表曲である『イメージの詩』を挙げている。
その他では桑田佳祐・アルフィー・松任谷由実・松山千春・CHAGE and ASKA・甲斐バンド・オフコースさんまが笑っていいとものテレフォンショッキングに最初に出演した際に次に紹介した相手が、かねてからタモリが嫌いと公言してた小田和正だった。
などと20代の頃より親交があり、実際にアルバムCMに出たり、楽曲を提供したりもらったりしている。
2000年代以降の歌手ならMISIAなどと親交をもち、NETFLIXの「Jimmy〜アホみたいなホンマの話〜」の主題歌としてMISIAがさんまのお気に入りでもある甲斐バンドの楽曲『最後の夜汽車』をカバーした。
どちらかというとメロディよりも歌詞に重きを置いているようで、近年では大塚愛の『さくらんぼ』、森高千里の『渡良瀬橋』、AKB48の『恋するフォーチュンクッキー』、西野カナの『Darling』のようなかわいい歌詞を好んでいる。
さんまが一番好きだったキャラクターはブラックデビル。
ビートたけしがさんまのキャラで一番好きだったものは「サラリーマン」である。
このサラリーマンはスーツにネクタイ、メガネといったありきたりの風貌で「高卒、手取り18万」という境遇でタケちゃんマンに難癖をつけて絡むというキャラクターだったが、視聴者から「夢がない」と苦情が入り、さらには、子どもたちにも不人気だったことが災いして、わずが3週で打ち切りとなった。
フライデー襲撃事件でたけし不在となっていた時期、吉永小百合の「奈良の春日野」をバックに鹿の着ぐるみを着て、渡辺正行と踊っていた。
1987年に『笑っていいとも!』のトークコーナーで、吉永のファンであるタモリをいじるため、楽曲中に「鹿のふん」という吉永のイメージらしからぬ歌詞が出てくる同曲を発掘・放送し、大きな話題になったことを流用したもの。
番組開始当初のコーナー「ひょうきんニュース」には本名の「杉本高文」を名乗っていた。
また、「ひょうきんベストテン」の初代司会者でもあった。
*1997年12月11日木曜日に「テレフォンショッキング」に、前妻である大竹しのぶの紹介でゲスト出演 前日の電話の際には大竹に対し「俺、お前の友達ちゃうやろ!」と発言した。
以後同番組への出演はなかったが、自身が総合司会を務めた2008年7月の『FNS27時間テレビ』内の「増刊号生スペシャル」にて行われた「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で登場、タモリと約47分間のフリートークを繰り広げた。
当日の新聞のラテ欄には「タモリとテレフォンショッキングで最長記録樹立か」と書かれていたが、その言葉通り「増刊号生スペシャル」も含めた全てのテレフォンショッキングの中で最長記録を樹立した一般には「増刊号生スペシャル」のテレフォンショッキングは時間制限がないことから記録に含めないため、最長記録は黒柳徹子が記録した43分となっている。
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*2008年7月27日日曜日には自身が総合司会を担当した「FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!」内コーナー・さんま in 笑っていいとも!「テレフォンショッキング」にビビる大木の紹介で出演 その他のコーナーには参加しなかったが、いいとも!としての出演は11年ぶりのこととなった。
CM明けに先述のレギュラー時代のコーナー「最低男」のジングルが流された。
後輩のFUJIWARAを紹介した。
*2009年7月24日金曜日の「テレフォンショッキング」にもしずちゃんの紹介で出演。
この時さんまは友達として次回のテレフォンゲストに同年の第23回FNSの日『FNSの日26時間テレビ2009 超笑顔パレード 爆笑!お台場合宿!!』総合司会の島田紳助を紹介した。
2020/10/6(火)



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