渥美清
と 松竹大船撮影所 大船駅 奥山融
あつみ きよし 渥美清 |
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞している。 |
![]() |
![]() |
![]() |
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
2023/9/24(日)



スポンサードリンク
渥美清 と 伊集院光のOh!デカナイト (有)チェリーベル
渥美清 と ギネスブック