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しむらけん
志村けん
志村 けん(しむら けん、1950年〈昭和25年〉2月20日 - 2020年〈令和2年〉3月29日)は、日本のコメディアン、お笑いタレント、司会者。東村山市名誉市民。 ザ・ドリフターズのメンバーとして活躍する傍ら、亡くなるまで自らが持つ番組でコントを披露し続けた。生前時は渡辺プロダクションを経てイザワオフィスに移籍し、同じくザ・ドリフターズのメンバーで、2004年(平成16年)に死去したいかりや長介と同様に没後も籍を残している。 1973年までの旧芸名の表記は「志村 健」。ドリフでの初期には「志村 ケン」名義での表記もあった。本名は志村 康徳(しむら やすのり)で、構成作家としては本名名義でクレジットされた。



志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した荒井注は1973年10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた。
志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった。
当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。
転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。
いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。
全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。
カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。
ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。
1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。
その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。
この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。
一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていたもっともドリフターズのメンバーはテレビでのコメディアン路線とは別に松竹及び東宝で製作・公開された映画に主演俳優として出演しており、正式加入前の付き人時代に度々チョイ役で出演している。
出演作品のオープニングには、本名の志村康徳名義でクレジットされている(2018年10月からBS11で放映が始まったドリフターズ映画の番宣では、志村の出演作だと「この人も出演!」と、登場シーンをピックアップする形で紹介されている) 志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した。
自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。
この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。
なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。
天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて、思ってなかっただろうな。
びっくりしたと思うよ。
長さんの次は、高木ブーだと思ってたもんな。
でも、久しぶりに二人っきりでいろんな話が出来るから、長さんも喜ぶんじゃねえかな。
まあ、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えといてくれよ。
5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。
約束だぞ。
じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。
大好きな志村よ。
一時期(1985年から1998年頃)は確執もあった。
当時の『全員集合』でもいかりやと絡むコントは減り「“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていった」「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(週刊女性2020年5月5日号)、『ドリフ大爆笑』ではリハーサルや撮影が別々に行われた1998年には『ドリフ大爆笑』の収録で「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった。
慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(週刊女性2020年5月5日号) いかりやとの確執が噂された時期の志村は「だいじょうぶだぁ」と「ごきげんテレビ」の収録の合間に「大爆笑」の収録をしていた。
また、「だいじょうぶだぁ」と「大爆笑」のスタッフがほぼ同一であったため「だいじょうぶだぁ」収録時に「大爆笑」のコントも収録していた。
この時期は志村以外のメンバーも個々がそれぞれのスケジュールの合間で収録をして、それをひとつの番組として放送している。
志村以外のメンバーも「全員集合」終了後は個々に活動する合間で「大爆笑」の収録をしていたので、「大爆笑」が唯一ドリフとして活動する期会になっていた。
上記の2番組の放送終了後は「大爆笑」で「全員集合」時代の公開コントや「大爆笑」放送初期のコントを再現することもあり、いかりやと志村の共演が復活している。
全員集合」終了後は一緒に番組をしていた加藤、志村と他の3人に分かれるケースが多く、この時期から「雷様」や「バカ兄弟」といったカトケン以外のメンバーがメインのコントが増え始めた。
幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたいかりやに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測出来ないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた。
この兆候は『全員集合』時代後期から表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。
時には、いかりやがそれに便乗することもあった志村が観客から失敬してきたスイカを、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど。

年齢が比較的近く、またドリフ加入の経緯から加藤茶とは特に親密であり、『全員集合』『ドリフ大爆笑』では息の合ったコントを披露し、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』など共演番組や2人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。
両者はいつしか加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。
志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲が良くなったと振り返っている。
この事は加藤自身も付き人になってひと月もしないうちに付き人より友達の状態になっていたと振り返っており、師弟関係おかまいなしにプライベートではタメ口になってよく志村に頭をはたかれて、その性格からいつか売れるじゃないかと感じたと語っている。
ドリフ新メンバーの加入経緯も加藤自身、舞台でコントをする際、仲の良い志村が加入した方が加藤個人としてもドリフの活動にストレスの負担が軽減されるからいかりやに推薦したと語っている。
加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。
加藤の妻と3人で遊びに行った際は、志村と加藤の会話が二人にしか通じない話し方で会話をしてて余程仲が良かったんじゃないかとも妻の綾菜は振り返っている。
全員集合』の終了と『ドリフ大爆笑』の不定期化後、加藤以外のドリフメンバーとは距離を置き、1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみだったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村は『ダウンタウンDX』に頻繁に出演していたが、ドリフメンバーで志村と一緒に出演したのは加藤と高木だけである。
志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。
2016年には志村の発案で「となりのシムラ」にゲスト出演するなど、高木との共演数も増えている。
高木ブ―は志村けんの死後、追悼番組にて志村がドリフに加入した時、演奏で自分がミスをしても、いかりや長介は常に一番年下の志村ばかり怒鳴りつけていた、それを平然と耐えていた志村には感謝していると語っている。
志村がドリフ加入前の「マックボンボン」時代の1972年、PYGから離れてソロ歌手になった沢田のコンサートの前座を務めてそれが出会いという。
『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内に於いて沢田研二とよく共演していた。
当時、沢田と志村は共に渡辺プロダクションに所属していたこともあり、共演する回数は多かった。
全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した。
使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した。
全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。
早食いはしていない。
様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。
なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
西部劇の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まるジャンケン。
仲本とのペア。
敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
掛け声は後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」に変更された。
最後の「勝つ」の部分はグーを出す なお、本人および加藤によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。
桜田淳子との夫婦コント。
全員集合』の後半パートで、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。
何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に照明が暗くなる) その度、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せを噛み締める…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、貴方 御飯にする?それともお風呂にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた。
或いは、御飯炊くの忘れていた等) ところが、志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと 桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾 志村が「私って駄目な男ね あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
歌舞伎『一条大蔵譚』のパロディ フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。
橋幸夫演じる立派な殿様の影武者としていかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こるという内容であった。
バカ殿に振り回される家老はいかりやが演じた。
コナミよりファミリーコンピュータソフト「ハイパーオリンピック」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものが『全員集合』のコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
英語の一人称変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きなビートルズの曲『アイ・ミー・マイン』("I Me Mine")にヒントを得て変化(所有代名詞の部分を省略)させたもの。
学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。
以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOUの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用、「ヒズ・ヒム・ヒー」とするパターンもあり)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。
また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
ハイパーオリンピック殿様版(1985年、コナミ) - ファミリーコンピュータ。
『8時だョ!全員集合』のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された。
カトちゃんケンちゃん(1987年、ハドソン) - PCエンジン。
加藤茶と共演。
2023/4/21(金)
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した荒井注は1973年10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた 志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった  当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある 『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていたもっともドリフターズのメンバーはテレビでのコメディアン路線とは別に松竹及び東宝で製作・公開された映画に主演俳優として出演しており、正式加入前の付き人時代に度々チョイ役で出演している 出演作品のオープニングには、本名の志村康徳名義でクレジットされている(2018年10月からBS11で放映が始まったドリフターズ映画の番宣では、志村の出演作だと「この人も出演!」と、登場シーンをピックアップする形で紹介されている) 志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した 自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。

天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて、思ってなかっただろうな。びっくりしたと思うよ。長さんの次は、高木ブーだと思ってたもんな。でも、久しぶりに二人っきりでいろんな話が出来るから、長さんも喜ぶんじゃねえかな。
まあ、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えといてくれよ。5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。約束だぞ。
じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ。
一時期(1985年から1998年頃)は確執もあった。当時の『全員集合』でもいかりやと絡むコントは減り「“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていった」「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(週刊女性2020年5月5日号)、『ドリフ大爆笑』ではリハーサルや撮影が別々に行われた1998年には『ドリフ大爆笑』の収録で「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった 慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(週刊女性2020年5月5日号) いかりやとの確執が噂された時期の志村は「だいじょうぶだぁ」と「ごきげんテレビ」の収録の合間に「大爆笑」の収録をしていた また、「だいじょうぶだぁ」と「大爆笑」のスタッフがほぼ同一であったため「だいじょうぶだぁ」収録時に「大爆笑」のコントも収録していた この時期は志村以外のメンバーも個々がそれぞれのスケジュールの合間で収録をして、それをひとつの番組として放送している 志村以外のメンバーも「全員集合」終了後は個々に活動する合間で「大爆笑」の収録をしていたので、「大爆笑」が唯一ドリフとして活動する期会になっていた 上記の2番組の放送終了後は「大爆笑」で「全員集合」時代の公開コントや「大爆笑」放送初期のコントを再現することもあり、いかりやと志村の共演が復活している 「全員集合」終了後は一緒に番組をしていた加藤、志村と他の3人に分かれるケースが多く、この時期から「雷様」や「バカ兄弟」といったカトケン以外のメンバーがメインのコントが増え始めた。

幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたいかりやに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測出来ないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた この兆候は『全員集合』時代後期から表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。時には、いかりやがそれに便乗することもあった志村が観客から失敬してきたスイカを、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど。。

年齢が比較的近く、またドリフ加入の経緯から加藤茶とは特に親密であり、『全員集合』『ドリフ大爆笑』では息の合ったコントを披露し、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』など共演番組や2人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。両者はいつしか加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲が良くなったと振り返っている。この事は加藤自身も付き人になってひと月もしないうちに付き人より友達の状態になっていたと振り返っており、師弟関係おかまいなしにプライベートではタメ口になってよく志村に頭をはたかれて、その性格からいつか売れるじゃないかと感じたと語っている。ドリフ新メンバーの加入経緯も加藤自身、舞台でコントをする際、仲の良い志村が加入した方が加藤個人としてもドリフの活動にストレスの負担が軽減されるからいかりやに推薦したと語っている。加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。加藤の妻と3人で遊びに行った際は、志村と加藤の会話が二人にしか通じない話し方で会話をしてて余程仲が良かったんじゃないかとも妻の綾菜は振り返っている。

『全員集合』の終了と『ドリフ大爆笑』の不定期化後、加藤以外のドリフメンバーとは距離を置き、1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみだったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村は『ダウンタウンDX』に頻繁に出演していたが、ドリフメンバーで志村と一緒に出演したのは加藤と高木だけである。志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。2016年には志村の発案で「となりのシムラ」にゲスト出演するなど、高木との共演数も増えている。高木ブ―は志村けんの死後、追悼番組にて志村がドリフに加入した時、演奏で自分がミスをしても、いかりや長介は常に一番年下の志村ばかり怒鳴りつけていた、それを平然と耐えていた志村には感謝していると語っている。

志村がドリフ加入前の「マックボンボン」時代の1972年、PYGから離れてソロ歌手になった沢田のコンサートの前座を務めてそれが出会いという。
『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内に於いて沢田研二とよく共演していた。当時、沢田と志村は共に渡辺プロダクションに所属していたこともあり、共演する回数は多かった。

『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した 使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した 『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。早食いはしていない。
 様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
西部劇の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本とのペア。敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
掛け声は後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」に変更された 最後の「勝つ」の部分はグーを出す なお、本人および加藤によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。

桜田淳子との夫婦コント。『全員集合』の後半パートで、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に照明が暗くなる) その度、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せを噛み締める…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、貴方 御飯にする?それともお風呂にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた 或いは、御飯炊くの忘れていた等) ところが、志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと 桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾 志村が「私って駄目な男ね あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
 パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
歌舞伎『一条大蔵譚』のパロディ フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。橋幸夫演じる立派な殿様の影武者としていかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こるという内容であった。バカ殿に振り回される家老はいかりやが演じた。
コナミよりファミリーコンピュータソフト「ハイパーオリンピック」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものが『全員集合』のコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
 当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
英語の一人称変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きなビートルズの曲『アイ・ミー・マイン』(I Me Mine)にヒントを得て変化(所有代名詞の部分を省略)させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOUの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用、「ヒズ・ヒム・ヒー」とするパターンもあり)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
 テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
ハイパーオリンピック殿様版(1985年、コナミ) - ファミリーコンピュータ。『8時だョ!全員集合』のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された。
 カトちゃんケンちゃん(1987年、ハドソン) - PCエンジン。加藤茶と共演。
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した荒井注は1973年10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた 志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった  当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある 『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていたもっともドリフターズのメンバーはテレビでのコメディアン路線とは別に松竹及び東宝で製作・公開された映画に主演俳優として出演しており、正式加入前の付き人時代に度々チョイ役で出演している 出演作品のオープニングには、本名の志村康徳名義でクレジットされている(2018年10月からBS11で放映が始まったドリフターズ映画の番宣では、志村の出演作だと「この人も出演!」と、登場シーンをピックアップする形で紹介されている) 志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した 自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。

天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて、思ってなかっただろうな。びっくりしたと思うよ。長さんの次は、高木ブーだと思ってたもんな。でも、久しぶりに二人っきりでいろんな話が出来るから、長さんも喜ぶんじゃねえかな。
まあ、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えといてくれよ。5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。約束だぞ。
じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ。
一時期(1985年から1998年頃)は確執もあった。当時の『全員集合』でもいかりやと絡むコントは減り「“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていった」「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(週刊女性2020年5月5日号)、『ドリフ大爆笑』ではリハーサルや撮影が別々に行われた1998年には『ドリフ大爆笑』の収録で「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった 慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(週刊女性2020年5月5日号) いかりやとの確執が噂された時期の志村は「だいじょうぶだぁ」と「ごきげんテレビ」の収録の合間に「大爆笑」の収録をしていた また、「だいじょうぶだぁ」と「大爆笑」のスタッフがほぼ同一であったため「だいじょうぶだぁ」収録時に「大爆笑」のコントも収録していた この時期は志村以外のメンバーも個々がそれぞれのスケジュールの合間で収録をして、それをひとつの番組として放送している 志村以外のメンバーも「全員集合」終了後は個々に活動する合間で「大爆笑」の収録をしていたので、「大爆笑」が唯一ドリフとして活動する期会になっていた 上記の2番組の放送終了後は「大爆笑」で「全員集合」時代の公開コントや「大爆笑」放送初期のコントを再現することもあり、いかりやと志村の共演が復活している 「全員集合」終了後は一緒に番組をしていた加藤、志村と他の3人に分かれるケースが多く、この時期から「雷様」や「バカ兄弟」といったカトケン以外のメンバーがメインのコントが増え始めた。

幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたいかりやに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測出来ないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた この兆候は『全員集合』時代後期から表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。時には、いかりやがそれに便乗することもあった志村が観客から失敬してきたスイカを、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど。。

年齢が比較的近く、またドリフ加入の経緯から加藤茶とは特に親密であり、『全員集合』『ドリフ大爆笑』では息の合ったコントを披露し、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』など共演番組や2人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。両者はいつしか加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲が良くなったと振り返っている。この事は加藤自身も付き人になってひと月もしないうちに付き人より友達の状態になっていたと振り返っており、師弟関係おかまいなしにプライベートではタメ口になってよく志村に頭をはたかれて、その性格からいつか売れるじゃないかと感じたと語っている。ドリフ新メンバーの加入経緯も加藤自身、舞台でコントをする際、仲の良い志村が加入した方が加藤個人としてもドリフの活動にストレスの負担が軽減されるからいかりやに推薦したと語っている。加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。加藤の妻と3人で遊びに行った際は、志村と加藤の会話が二人にしか通じない話し方で会話をしてて余程仲が良かったんじゃないかとも妻の綾菜は振り返っている。

『全員集合』の終了と『ドリフ大爆笑』の不定期化後、加藤以外のドリフメンバーとは距離を置き、1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみだったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村は『ダウンタウンDX』に頻繁に出演していたが、ドリフメンバーで志村と一緒に出演したのは加藤と高木だけである。志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。2016年には志村の発案で「となりのシムラ」にゲスト出演するなど、高木との共演数も増えている。高木ブ―は志村けんの死後、追悼番組にて志村がドリフに加入した時、演奏で自分がミスをしても、いかりや長介は常に一番年下の志村ばかり怒鳴りつけていた、それを平然と耐えていた志村には感謝していると語っている。

志村がドリフ加入前の「マックボンボン」時代の1972年、PYGから離れてソロ歌手になった沢田のコンサートの前座を務めてそれが出会いという。
『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内に於いて沢田研二とよく共演していた。当時、沢田と志村は共に渡辺プロダクションに所属していたこともあり、共演する回数は多かった。

『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した 使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した 『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。早食いはしていない。
 様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
西部劇の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本とのペア。敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
掛け声は後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」に変更された 最後の「勝つ」の部分はグーを出す なお、本人および加藤によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。

桜田淳子との夫婦コント。『全員集合』の後半パートで、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に照明が暗くなる) その度、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せを噛み締める…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、貴方 御飯にする?それともお風呂にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた 或いは、御飯炊くの忘れていた等) ところが、志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと 桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾 志村が「私って駄目な男ね あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
 パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
歌舞伎『一条大蔵譚』のパロディ フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。橋幸夫演じる立派な殿様の影武者としていかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こるという内容であった。バカ殿に振り回される家老はいかりやが演じた。
コナミよりファミリーコンピュータソフト「ハイパーオリンピック」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものが『全員集合』のコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
 当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
英語の一人称変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きなビートルズの曲『アイ・ミー・マイン』(I Me Mine)にヒントを得て変化(所有代名詞の部分を省略)させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOUの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用、「ヒズ・ヒム・ヒー」とするパターンもあり)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
 テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
ハイパーオリンピック殿様版(1985年、コナミ) - ファミリーコンピュータ。『8時だョ!全員集合』のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された。
 カトちゃんケンちゃん(1987年、ハドソン) - PCエンジン。加藤茶と共演。
志村はドリフの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入した荒井注は1973年10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた 志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった  当初『全員集合』のオープニングテロップは「見習い」と入っていた。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。

いかりやがツッコミであるドリフでは大ボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある 『全員集合』の後半コントなどでも、女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。ビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

1985年に『全員集合』が終了し、後番組として1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート 加藤がボケで、志村がツッコミを担当する その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』、『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし・松本典子・桑野信義・石野陽子・ダチョウ倶楽部(1997年以降)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなるがこれ以降胃潰瘍に苦しむ。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていたもっともドリフターズのメンバーはテレビでのコメディアン路線とは別に松竹及び東宝で製作・公開された映画に主演俳優として出演しており、正式加入前の付き人時代に度々チョイ役で出演している 出演作品のオープニングには、本名の志村康徳名義でクレジットされている(2018年10月からBS11で放映が始まったドリフターズ映画の番宣では、志村の出演作だと「この人も出演!」と、登場シーンをピックアップする形で紹介されている) 志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』には出演した 自宅の留守番電話に高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉さんの申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。

天国の長さんも、まさかお前が最初に来るなんて、思ってなかっただろうな。びっくりしたと思うよ。長さんの次は、高木ブーだと思ってたもんな。でも、久しぶりに二人っきりでいろんな話が出来るから、長さんも喜ぶんじゃねえかな。
まあ、いずれそう遠くないうちに、俺たちもそっちに行くと思うから、それまで長さんと酒でも酌み交わしながら、ドリフの新しいネタでも考えといてくれよ。5人がそっちに『全員集合』したら、そっちのお客さんを『大爆笑』させようぜ。約束だぞ。
じゃ、それまでゆっくりと休んでくれ。大好きな志村よ。
一時期(1985年から1998年頃)は確執もあった。当時の『全員集合』でもいかりやと絡むコントは減り「“俺のほうがもっとウケますよ”と志村さんが意見することが増えていった」「“それほど言うなら志村、お前がやってみろ”と『全員集合』が終わるまでの数か月は、志村さんがすべてのコントを作ることになったんです でもそれからです、2人がギクシャクし始めたのはね……」(週刊女性2020年5月5日号)、『ドリフ大爆笑』ではリハーサルや撮影が別々に行われた1998年には『ドリフ大爆笑』の収録で「“いかりやさんとは一緒にやれない”“番組を降りる”とまで言い出して収録をボイコットすることもあった 慌てたスタッフが折衷案を出して、いかりやさん、仲本さん、高木さんの3人と、志村さんと加藤さんの2人でコントをするという具合に、メンバーを完全に分けて撮るように」(週刊女性2020年5月5日号) いかりやとの確執が噂された時期の志村は「だいじょうぶだぁ」と「ごきげんテレビ」の収録の合間に「大爆笑」の収録をしていた また、「だいじょうぶだぁ」と「大爆笑」のスタッフがほぼ同一であったため「だいじょうぶだぁ」収録時に「大爆笑」のコントも収録していた この時期は志村以外のメンバーも個々がそれぞれのスケジュールの合間で収録をして、それをひとつの番組として放送している 志村以外のメンバーも「全員集合」終了後は個々に活動する合間で「大爆笑」の収録をしていたので、「大爆笑」が唯一ドリフとして活動する期会になっていた 上記の2番組の放送終了後は「大爆笑」で「全員集合」時代の公開コントや「大爆笑」放送初期のコントを再現することもあり、いかりやと志村の共演が復活している 「全員集合」終了後は一緒に番組をしていた加藤、志村と他の3人に分かれるケースが多く、この時期から「雷様」や「バカ兄弟」といったカトケン以外のメンバーがメインのコントが増え始めた。

幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたいかりやに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測出来ないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた この兆候は『全員集合』時代後期から表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。時には、いかりやがそれに便乗することもあった志村が観客から失敬してきたスイカを、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど。。

年齢が比較的近く、またドリフ加入の経緯から加藤茶とは特に親密であり、『全員集合』『ドリフ大爆笑』では息の合ったコントを披露し、『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』など共演番組や2人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。両者はいつしか加トちゃんケンちゃんと呼ばれるようになった。志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲が良くなったと振り返っている。この事は加藤自身も付き人になってひと月もしないうちに付き人より友達の状態になっていたと振り返っており、師弟関係おかまいなしにプライベートではタメ口になってよく志村に頭をはたかれて、その性格からいつか売れるじゃないかと感じたと語っている。ドリフ新メンバーの加入経緯も加藤自身、舞台でコントをする際、仲の良い志村が加入した方が加藤個人としてもドリフの活動にストレスの負担が軽減されるからいかりやに推薦したと語っている。加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。加藤の妻と3人で遊びに行った際は、志村と加藤の会話が二人にしか通じない話し方で会話をしてて余程仲が良かったんじゃないかとも妻の綾菜は振り返っている。

『全員集合』の終了と『ドリフ大爆笑』の不定期化後、加藤以外のドリフメンバーとは距離を置き、1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみだったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村は『ダウンタウンDX』に頻繁に出演していたが、ドリフメンバーで志村と一緒に出演したのは加藤と高木だけである。志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。2016年には志村の発案で「となりのシムラ」にゲスト出演するなど、高木との共演数も増えている。高木ブ―は志村けんの死後、追悼番組にて志村がドリフに加入した時、演奏で自分がミスをしても、いかりや長介は常に一番年下の志村ばかり怒鳴りつけていた、それを平然と耐えていた志村には感謝していると語っている。

志村がドリフ加入前の「マックボンボン」時代の1972年、PYGから離れてソロ歌手になった沢田のコンサートの前座を務めてそれが出会いという。
『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内に於いて沢田研二とよく共演していた。当時、沢田と志村は共に渡辺プロダクションに所属していたこともあり、共演する回数は多かった。

『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した 使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いが出来ることを証明した 『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。早食いはしていない。
 様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。
西部劇の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本とのペア。敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
掛け声は後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」に変更された 最後の「勝つ」の部分はグーを出す なお、本人および加藤によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。

桜田淳子との夫婦コント。『全員集合』の後半パートで、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に照明が暗くなる) その度、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せを噛み締める…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、貴方 御飯にする?それともお風呂にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた 或いは、御飯炊くの忘れていた等) ところが、志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと 桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾 志村が「私って駄目な男ね あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
 パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
歌舞伎『一条大蔵譚』のパロディ フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。橋幸夫演じる立派な殿様の影武者としていかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こるという内容であった。バカ殿に振り回される家老はいかりやが演じた。
コナミよりファミリーコンピュータソフト「ハイパーオリンピック」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものが『全員集合』のコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
 当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
英語の一人称変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きなビートルズの曲『アイ・ミー・マイン』(I Me Mine)にヒントを得て変化(所有代名詞の部分を省略)させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOUの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用、「ヒズ・ヒム・ヒー」とするパターンもあり)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
 テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後述する「変なおじさん」の振り付けに転用されている。
ハイパーオリンピック殿様版(1985年、コナミ) - ファミリーコンピュータ。『8時だョ!全員集合』のバカ殿様コントで使用されたものが後に市販された。
 カトちゃんケンちゃん(1987年、ハドソン) - PCエンジン。加藤茶と共演。
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