庵野秀明
と 新世紀エヴァンゲリオン
あんの ひであき 庵野秀明 |
庵野 秀明(あんの ひであき、1960年〈昭和35年〉5月22日 - )は、日本のアニメーター、映画監督、実業家。カラー代表取締役社長。株式会社プロジェクトスタジオQ創作管理統括。株式会社でほぎゃらりー取締役。NPO法人アニメ特撮アーカイブ機構理事長。山口県宇部市出身。山口県立宇部高等学校卒業。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科(現・映像学科)除籍。血液型はA型。妻は漫画家の安野モヨコ。 別名義として、アニメーションを手がける際のあんの ひであきやアンノ ヒデアキ、作詞家としての空母そ・そ・そ・そ、樋口真嗣との作詞コンビHIDE&シンディー♡などがある。 代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞受賞作の『新世紀エヴァンゲリオン』、ゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞などの数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがある。監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。 |
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代表作に『トップをねらえ!』、『ふしぎの海のナディア』、第18回日本SF大賞受賞作の『新世紀エヴァンゲリオン』、ゴジラシリーズ第29作で第40回日本アカデミー賞などの数々の賞を受賞した『シン・ゴジラ』などがある。
監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。
『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、実写方面への進出(『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の声優・つまり俳優」を起用することが多くなる。
これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。
幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、とインタビューに答えている。
人間のエゴや醜さをえぐり出す心理描写、細部にこだわったメカ造型、大胆な映像演出を得意とする。
意外なところから撮るエキセントリックなアングル(カメラアングル=構図)や逆光などを多用した描写が多い。
また、作品中に電柱・電線、信号機、遮断機、道路標識、非常口マークなどの短いカットを挿入することが多い。
電柱・電線は、自らの会社カラーのホームページにも使用している。
好きな映画・アニメ・漫画からのパロディ・オマージュが多く盛り込まれている。
特に永井豪、石川賢や岡本喜八、実相寺昭雄などからの影響が大きい。
同時にオリジナリティについては『新世紀エヴァンゲリオン』のコミック第1巻の所信表明文や『スキゾ・エヴァンゲリオン』で、「僕のようなアニメや漫画ばかりを見てきた世代は、パッと浮かんだことにだいたいいつも元ネタがあり、時に嫌になる」という趣旨の発言をしている。
作画面では建築物や機械、爆発シーンの描写を得意とする。
人物は、アニメ的なキャラクターが苦手と本人も認めており、描くことは少ないが、ゼネラルプロダクツのアニメック誌の連載やパンフレットの挿絵、まんがアニメックや同人誌に掲載された短編マンガなどがあり、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』ではリン・ミンメイの原画を手掛けている。
2013年に発売された、初代ガンダムのキャラクターデザインおよび作画監督を務めた安彦良和の特集本の責任編集を手掛け、同書では安彦、同作で原画を担当した板野一郎と庵野による師弟&孫弟子の鼎談が収録された。
。
特撮作品では「ウルトラシリーズ」の大ファンで、特に『帰ってきたウルトラマン』に熱中したといい、大学時代には『ウルトラマン』の8ミリ映画を自主制作している。
なお、高校時代に8ミリフィルムのカメラを購入している。
DAICON FILMで1983年(昭和58年)に製作した『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』では、総監督と顔出しのウルトラマン役で自ら出演(主演)した。
なお、この作品は後年、円谷プロの許諾を得て、ガイナックスから期間および通販限定のDVDソフトとして発売された。
また、ゼネラルプロダクツから販売された「帰ってきたウルトラマンTシャツ」用の素材イラストも手掛けている。
また、自身の作品への影響として、"首都"東京に定期的に怪獣が出没し、それを迎撃するための組織があり、巨大ヒーローは数分間しかフル活動できないというウルトラシリーズの特徴的だった設定と展開が、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に受け継がれている。
東京都現代美術館で2012年7月10日より開催された展覧会「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」のプロデュースを担当し、会場で上映された短編特撮映画『巨神兵東京に現わる』の脚本などを手がけた。
他にも時代劇『大江戸捜査網』のファンでもあり、『新世紀エヴァンゲリオン』が同じテレビ東京系列で放送されていたことから、知り合いの関係者に『大江戸捜査網』のソフト化を働きかけることも多かったという。
1988年(昭和63年) - 『トップをねらえ!』でアニメ初監督。
1997年(平成09年) - 『新世紀エヴァンゲリオン』で第18回日本SF大賞を受賞。
1998年(平成10年) - 映画『ラブ&ポップ』で実写初監督。
宮崎駿には反発した時期もあり、庵野が宮崎監督作品を「つまらない映画」と評したこともあった。
しかし『新世紀エヴァンゲリオン』放送終了後、庵野が危ないという噂を聞いた宮崎は電話をかけ「作れるようになるまで休めばいい」「あれだけのものを作ったんだから、人も金も集まってくる」と庵野を励まし、庵野は宮崎の言葉にかなり助けられたという。
1984年(昭和59年)に、原画として参加した『風の谷のナウシカ』で、後に作中の登場人物クシャナを主人公にした外伝を作りたいと申し出るが、宮崎駿は庵野の企画を戦争ごっこをやりたいだけなのだとし、くだらない最低のものになるのが決まっているからと却下している。
『ナウシカ』の漫画作品の連載がクライマックスを迎えたころには、映画会社内で続編の企画が存在したが、宮崎の意向により、制作は行われず企画は立ち消えとなった。
しかし、2013年に「僕は続編をやる気はない でも庵野がやりたいやりたいと言うから、やるならやっても良いと思うようになっていってます」と発言。
鈴木敏夫によると、2016年時点では既に宮崎本人から続編を手がける許可を得ているものの、庵野自身がなかなか動かずにいるという。
監督作が日本アカデミー賞の最優秀作品賞と最優秀アニメーション作品賞の両方を受賞した宮崎駿、山崎貴に続く史上三人目の映画監督である。
『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、実写方面への進出(『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の声優・つまり俳優」を起用することが多くなる。
これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。
幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、とインタビューに答えている。
人間のエゴや醜さをえぐり出す心理描写、細部にこだわったメカ造型、大胆な映像演出を得意とする。
意外なところから撮るエキセントリックなアングル(カメラアングル=構図)や逆光などを多用した描写が多い。
また、作品中に電柱・電線、信号機、遮断機、道路標識、非常口マークなどの短いカットを挿入することが多い。
電柱・電線は、自らの会社カラーのホームページにも使用している。
好きな映画・アニメ・漫画からのパロディ・オマージュが多く盛り込まれている。
特に永井豪、石川賢や岡本喜八、実相寺昭雄などからの影響が大きい。
同時にオリジナリティについては『新世紀エヴァンゲリオン』のコミック第1巻の所信表明文や『スキゾ・エヴァンゲリオン』で、「僕のようなアニメや漫画ばかりを見てきた世代は、パッと浮かんだことにだいたいいつも元ネタがあり、時に嫌になる」という趣旨の発言をしている。
作画面では建築物や機械、爆発シーンの描写を得意とする。
人物は、アニメ的なキャラクターが苦手と本人も認めており、描くことは少ないが、ゼネラルプロダクツのアニメック誌の連載やパンフレットの挿絵、まんがアニメックや同人誌に掲載された短編マンガなどがあり、『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』ではリン・ミンメイの原画を手掛けている。
2013年に発売された、初代ガンダムのキャラクターデザインおよび作画監督を務めた安彦良和の特集本の責任編集を手掛け、同書では安彦、同作で原画を担当した板野一郎と庵野による師弟&孫弟子の鼎談が収録された。
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特撮作品では「ウルトラシリーズ」の大ファンで、特に『帰ってきたウルトラマン』に熱中したといい、大学時代には『ウルトラマン』の8ミリ映画を自主制作している。
なお、高校時代に8ミリフィルムのカメラを購入している。
DAICON FILMで1983年(昭和58年)に製作した『帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令』では、総監督と顔出しのウルトラマン役で自ら出演(主演)した。
なお、この作品は後年、円谷プロの許諾を得て、ガイナックスから期間および通販限定のDVDソフトとして発売された。
また、ゼネラルプロダクツから販売された「帰ってきたウルトラマンTシャツ」用の素材イラストも手掛けている。
また、自身の作品への影響として、"首都"東京に定期的に怪獣が出没し、それを迎撃するための組織があり、巨大ヒーローは数分間しかフル活動できないというウルトラシリーズの特徴的だった設定と展開が、そのまま『新世紀エヴァンゲリオン』に受け継がれている。
東京都現代美術館で2012年7月10日より開催された展覧会「館長 庵野秀明特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」のプロデュースを担当し、会場で上映された短編特撮映画『巨神兵東京に現わる』の脚本などを手がけた。
他にも時代劇『大江戸捜査網』のファンでもあり、『新世紀エヴァンゲリオン』が同じテレビ東京系列で放送されていたことから、知り合いの関係者に『大江戸捜査網』のソフト化を働きかけることも多かったという。
1988年(昭和63年) - 『トップをねらえ!』でアニメ初監督。
1997年(平成09年) - 『新世紀エヴァンゲリオン』で第18回日本SF大賞を受賞。
1998年(平成10年) - 映画『ラブ&ポップ』で実写初監督。
宮崎駿には反発した時期もあり、庵野が宮崎監督作品を「つまらない映画」と評したこともあった。
しかし『新世紀エヴァンゲリオン』放送終了後、庵野が危ないという噂を聞いた宮崎は電話をかけ「作れるようになるまで休めばいい」「あれだけのものを作ったんだから、人も金も集まってくる」と庵野を励まし、庵野は宮崎の言葉にかなり助けられたという。
1984年(昭和59年)に、原画として参加した『風の谷のナウシカ』で、後に作中の登場人物クシャナを主人公にした外伝を作りたいと申し出るが、宮崎駿は庵野の企画を戦争ごっこをやりたいだけなのだとし、くだらない最低のものになるのが決まっているからと却下している。
『ナウシカ』の漫画作品の連載がクライマックスを迎えたころには、映画会社内で続編の企画が存在したが、宮崎の意向により、制作は行われず企画は立ち消えとなった。
しかし、2013年に「僕は続編をやる気はない でも庵野がやりたいやりたいと言うから、やるならやっても良いと思うようになっていってます」と発言。
鈴木敏夫によると、2016年時点では既に宮崎本人から続編を手がける許可を得ているものの、庵野自身がなかなか動かずにいるという。
2023/9/23(土)



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