渥美清
と 谷幹一
あつみ きよし 渥美清 |
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞している。 |
![]() |
![]() |
![]() |
1940年に板橋城山高等小学校に入学。
第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。
堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。
旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。
この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。
1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演 1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー 1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成 しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演 コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。
7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。
同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。
この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。
この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。
特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。
大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。
中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。
長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。
渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。
披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。
渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
第二次世界大戦中の1942年に旧制私立巣鴨中学校に入学するが、学徒動員で板橋の軍需工場へ駆り出され軍用機のラジエーターを造(ママ)っていたとされる。
堀切直人は、巣鴨中学校には進学しておらず志村坂上の東京管楽器の町工場に就職したとしている。
旧制1945年に同校を卒業するも、3月10日の東京大空襲で自宅が被災し焼け出される。
卒業後は工員として働きながら、一時期、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた(親友の谷幹一に、かつて自分は桝屋一家に身を寄せていた、と語ったことがある)。
この幼少期に培った知識が後の「男はつらいよ」シリーズの寅次郎のスタイルを産むきっかけになったといえる。
永六輔によれば、戦後焼け跡の金属を換金し、秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループに永も参加していたが、そのグループのリーダーが渥美清であったとのこと。
1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演 1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー 1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成 しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演 コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。
7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。
同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。
この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。
この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。
特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。
大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。
中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。
長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。
渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。
披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。
渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
2023/9/24(日)



スポンサードリンク
渥美清 と 伊集院光のOh!デカナイト (有)チェリーベル
渥美清 と ギネスブック