渥美清
と 関敬六
あつみ きよし 渥美清 |
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞している。 |
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1946年には新派の軽演劇の幕引きになり、大宮市日活館の下働きを経て、『阿部定一代記』でのチョイ役で舞台初出演。
1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。
2年後の1953年には、フランス座へ移籍。
この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。
(後述参照)。
1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。
このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。
退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する。
再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演 1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー 1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成 しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演 コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。
7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。
同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。
この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。
この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。
特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。
最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。
中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。
長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。
渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。
披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。
渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。
なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。
1951年、東京浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」(建物疎開した観音劇場の跡)の専属コメディアンとなる。
2年後の1953年には、フランス座へ移籍。
この頃のフランス座は、長門勇、東八郎、関敬六など後に第一線で活躍するコメディアンたちが在籍し、コント作家として井上ひさしが出入りしていた。
またこの頃、浅草の銭湯で、のちにシナリオライターとなる早坂暁(当時は大学生)と知り合い、親しくなる。
(後述参照)。
1954年、肺結核で右肺を切除し埼玉のサナトリウムで約2年間の療養生活を送る。
このサナトリウムでの療養体験が後の人生観に多大な影響を与えたと言われ、右肺を無くしたことでそれまでのドタバタ喜劇ができなくなった。
退院後の1956年の秋、今度は胃腸を患い中野の立正佼成会病院に三か月入院する。
再復帰後は酒や煙草、コーヒーさえも一切やらなくなり過剰な程の摂生に努めた。
1956年に日本テレビ連続ドラマ「すいれん夫人とバラ娘」で主役の朝丘雪路のダメ助手役でテレビ初出演 1958年に『おトラさん大繁盛』で映画にデビュー 1959年にはストリップ小屋時代からの盟友である谷幹一・関敬六とスリーポケッツを結成 しかし、数ヵ月後には脱退している。
1961年から1966年までNHKで放映された『夢であいましょう』、『若い季節』に出演 コメディアン・渥美清の名を全国区にした。
1962年公開の映画『あいつばかりが何故もてる』にて映画初主演を務める。
7年後に寅さん一家を組むことになる倍賞千恵子、森川信との共演である。
同年、フジテレビ連続ドラマ『大番』でのギューちゃん役がうける。
同年、ヤクザ(フーテン)役で出演した『おったまげ人魚物語』のロケの際、海に飛び込むシーンでは右肺切除の影響から飛び込むことができず、唯一代役を立てたシーンとも言われている。
当時、複数の映画が同じ地域で撮影を行っており、この時の撮影現場では、映画『切腹』(仲代達矢、岩下志麻、丹波哲郎、三國連太郎)の撮影現場の宿に泊まり、同宿した多くの俳優や監督と接することとなる。
1963年の野村芳太郎監督の映画『拝啓天皇陛下様』で「片仮名しか書けず、軍隊を天国と信じてやまない純朴な男」を演じ、俳優としての名声を確立する。
この作品がフジテレビの関係者の評判を得て「男はつらいよ」の構想が練られた。
1965年公開の、羽仁進監督の『ブワナ・トシの歌』ではアフリカ各地で4ヶ月間に及ぶ長期ロケを敢行。
この撮影以降、アフリカの魅力に取り付かれプライベート旅行で何度も訪れるようになる。
特に好きだったのはタンザニアのホテルから見るキリマンジャロで一日中眺めていることもあったという。
最後に舞台へ上がったのは1966年の5月に新宿コマ劇場で行われた翻訳ミュージカル「南太平洋」のルーサー・ビリス役でそれ以降二度と舞台を踏むことはなかったが、1991年の常盤座の閉幕の時行われた「関敬六劇団」さよなら公演の千秋楽フィナーレで俳優全員が舞台挨拶を行った時突然舞台に上がって「ご苦労さん」と関とあいさつをし、観客に手を振った。
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
大学についても異説があり、中央大学予科に入ったとする説、そもそも中央大学には入っておらず学歴を詐称していたという説、テキ屋稼業で都合がいいため中大予科の角帽をかぶっていたという説、天ぷら学生として角帽を被っていたという説、中央大学商学部に入学したという説がある。
中央大学説は関敬六が慶應義塾大学、谷幹一が早稲田大学、渥美清が中央大学という設定の芝居を行ったことがきっかけでそれをその後も踏襲したとも言われている。
家族構成は妻と子供2人だが、原宿に「勉強部屋」として、自分個人用のマンションを借りており、そこに一人籠っていることが多かった。
長男の田所健太郎が「親族の立場」で公の場に顔を出すのは渥美の死後だった。
渥美自身の結婚式は親族だけでささやかに行い、芸能記者の鬼沢慶一は招待され友人代表として出席したが、鬼沢はその事を渥美の死まで公表することはなく、渥美の没後にその時の記念写真と共に初めて公開した。
披露宴には、仕事仲間などは関敬六、谷幹一が出席し、司会はTBSの渥美番の杉山真太郎で『泣いてたまるか』の関係でTBSの番組宣伝部が担当した。
渥美は新珠三千代の熱狂的ファンを自称していたため、結婚の際は「新珠三千代さんごめんなさい」との迷コメントを出した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。
なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。
2023/9/24(日)



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