渥美清
と 山田洋次
あつみ きよし 渥美清 |
渥美 清(あつみ きよし、1928年〈昭和3年〉3月10日 - 1996年〈平成8年〉8月4日)は、日本のコメディアン、俳優、歌手。本名は田所 康雄(たどころ やすお)。 代表作『男はつらいよ』シリーズで、柴又育ちのテキ屋で風来坊の主人公「車 寅次郎」を演じ、「寅さん」として広く国民的人気を博した昭和の名優。没後に国民栄誉賞を受賞している。 |
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1968年10月3日から半年間、フジテレビにて、テレビドラマ『男はつらいよ』が放送され、脚本は山田洋次と森崎東が担当した。
最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。
これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。
当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。
以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。
国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。
映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。
『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。
44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。
ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという 体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。
46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。
48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。
それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。
最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。
東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。
なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。
特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。
最終回の「ハブに噛まれて寅さんが死ぬ」という結末に視聴者からの抗議が殺到したことから、翌1969年に「罪滅ぼしの意味も含めて」、松竹が映画を製作。
これが堅調な観客動員と高い評価を受けてシリーズ化。
当初は54万人程度だった観客動員は徐々に伸びて第8作では148万人と大ヒット水準まで飛躍。
以降、しばしば200万人を超えるなど松竹の屋台骨を支え続けるほどの大ヒットが続く。
国民的スターとなった渥美清は、主演の車寅次郎(フーテンの寅)役を27年間48作に亘って演じ続けることになる。
映画のシリーズでは最多記録の作品としてギネスブックにも載るなどの記録を成し遂げた。
晩年は、松竹の看板としてかなりの無理をしての仕事であった。
『男はつらいよ』42作目(1989年12月公開)以降は、病気になった渥美に配慮して、立って演じるシーンは減少し、晩年は立っていることもままならず、撮影の合間は寅さんのトランクを椅子代わりにして座っていることが多かった。
44作目(1991年12月公開)のころ「スタッフに挨拶されて、それに笑顔で答えることさえ辛いんです スタッフや見物の方への挨拶を省略していただきたい」と山田洋次に語っている。
ところがこの事情を知らない映画撮影の見物客は、渥美に声をかけてもまったく反応してもらえなかったことから「愛想が悪い」との理由で渥美を批判することもあったが、この頃にはもうスタッフをはじめ、どんなに声をかけられてももう一切人には挨拶をしなかったという 体調が悪くなった42作から甥の満男を主役にしたサブストーリーが作られ、年2本作っていたシリーズを1本に減らし、満男の出番を増やして寅次郎の出番を最小限に減らしている。
46作頃からは、2日撮影したら2日休養を置くスケジュールを組んだが午後3時頃からは声の調子が落ちてしまい録音の鈴木功は「つらくなってきた」と語っている。
48作では午前中には割と強かった渥美の体調を考慮し、撮影は午前9時から始まり午後1時ごろまでには終了。
それくらいのスケジュールでないともう撮れない状態だった、と山田は語っている。
最後に関係者が渥美清と会ったのは、1996年6月27日(若しくは6月30日)に代官山のレストラン・小川軒の会合で山田洋次の紫綬褒章受章の祝いを兼ねた次作の話し合いで、山田洋次、倍賞千恵子、渥美のスケジュールを管理していた制作主任の峰順一、松竹の大西氏らスタッフ10人と会食し、薄いステーキとはいえペロリと平らげたという。
8月13日に「渥美清さんとお別れする会」が松竹大船撮影所第9ステージで開かれた。
柴又の江戸川土手を模した祭壇の前に献花台が置かれ、2万1000人(3万人とも、3万5000人とも)が集まり、参列者の行列は1キロ離れた大船駅まで続いた。
浅丘ルリ子、奥山融、関敬六、倍賞千恵子、早坂暁、山田洋次(下記文章)らが弔辞を読んだ。
僕の立場としてはまず、皆さんにお礼を申し上げなくてはならないと思います。
今日は足の便の悪いこの土地までよくお出かけくださいました。
渥美さんのお別れの会は、葬儀場ではなく27年間寅さんを作り続けた撮影所で僕たちスタッフの手で行いたいと考え、会社にお願いしてこのような形にさせていただいた次第です。
先ほどからこちらで演奏してくれているのは、寅さんシリーズの第1作からそのほとんど全部を、山本直純さんの美しい音楽を演奏してくれたプレーヤーの方々です。
今から5年前、大分県の日田市にロケをした「寅次郎の休日」のころから、渥美さんの体の衰えが目立つようになりました。
46作、松坂慶子さんに出てもらった「寅次郎の縁談」では、瀬戸内海の小島の急な坂を上がり下りするのがとても辛そうだったことをよく覚えています。
去年の秋に亡くなったカメラマンの高羽さんと渥美さんは同じ病気で、2人の間には特別な情報の交換があって、それを高羽さんの口から聞くという辛い形で、僕は渥美さんの病状が決して油断できないことを知っていました。
もうそろそろ幕を引かねばいけない。
渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男を演じるという辛い仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思いました。
しかし、4分の1世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんがなくなるということがあまりにも問題であったこと。
そしてもう一つは、毎年秋口になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽しみを打ち切るのが辛くて、もう1作だけ、いやもう1作なんとかという思いで47作、48作を作ったのです。
後で伺えば、渥美さんのドクターは、この遺作に渥美さんが出演できたことは奇跡に近いと言っておられたそうです。
渥美さんはどんなにきつかったか。
ああ、悪いことをした・・・僕は今、後悔をしています。
7月に入院して肺の手術をしたけど、その経過が思わしくなくて渥美さんはとても苦しんだそうです。
ベッドの上で起き上がるのがやっとで、それもうつむいたままで両手で机の端をきつく握りしめて、その机をきつく握りしめて、その机がカタカタと音を立てて震えていたそうです。
あの渥美さんをなぜそんな、そんなに苦しめるのか・・・僕は天を恨みます。
渥美さん、長い間辛い思いをさせてすいませんでした。
でも、僕とそして僕たちスタッフは、あなたにめぐり会えて幸せでした。
今日、この会場にいる、あるいは、表で汗だらけになって車や弔問客の整理にかけずり回っている僕のスタッフを代表して、今あなたにお礼を言います。
27年間にわたって寅さん映画を作る喜びを与えてくれてありがとう。
渥美さん、本当にありがとう。
1997年8月4日には大船撮影所で一周忌献花式が開かれた。
東京・柴又の団子屋「くるまや」のセット撮影に使われた第9ステージが会場となり、山田洋次や倍賞千恵子らが出席した。
渥美は亡くなるまでプライベートを芸能活動の仕事に持ち込まなかったため、自宅住所は芸能・映画関係者や芸能界の友人にも知らされておらず、「男はつらいよ」シリーズで長年一緒だった山田洋次や、親友として知られる黒柳徹子、関敬六、谷幹一でさえ渥美の自宅も個人的な連絡先も知らず、仕事仲間は告別式まで渥美の家族との面識はなかった。
これは渥美が生前、私生活を徹底的に秘匿し、「渥美清=寅さん」のイメージを壊さないためであった。
このきっかけは、街を歩いていた時に、見知らぬ男性から「よお、寅」と声をかけられてからの事だと語っている。
実生活では質素な生活を送っていたようで、車は一台も所有しておらず、仕事での食事も店を選ばずに適当な蕎麦屋で済ませていたという。
映画においては山田洋次、野村芳太郎両監督とは別に、『沓掛時次郎 遊侠一匹 』『祇園祭』『スクラップ集団』『あゝ声なき友 』『おかしな奴』の脚本を書いた鈴木尚之とのコンビも長い。
なお渥美は、早坂と、関敬六、山田洋次らは46作目「寅次郎の縁談」(1993年公開)の撮影の合間を縫って放哉の墓参り、小豆島尾崎放哉記念館(土庄町)の建設現場へ訪れている。
山田洋次は渥美の頭脳の良さを指して「天才だった」と語っている。
特に記憶力に関しては驚異的なものがあり、台本を2・3度読むだけで完璧にセリフが頭に入ってしまったと証言している。
2023/9/24(日)



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