吉田拓郎
と カレッジ・フォーク
よしだ たくろう 吉田拓郎 |
吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年〈昭和21年〉4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ、広島県広島市育ち。 |
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特に初期の楽曲はボブ・ディランの影響・パクリを取り沙汰される。
拓郎自身「おいしいメロディがある」等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている。
デビュー当時、東京にカレッジ・フォーク、関西に関西フォークがあったため、「広島のフォークソングがあったっていいじゃないか」という強い思いがあった。
関西フォークは元々が嫌いだったから、関西フォークを研究し、関西フォークは、"私たち""ぼくたち""きみたち"という歌詞が多いことに気づき、それで、"私""ぼく""きみ"という私的な、個的な歌詞の歌を作ろうと決めた。
拓郎と同い年の岡林信康は「私たち」と歌ったが、拓郎は「私」と歌った。
「連帯」を求めた岡林に対して、「私たち」なんて幻想に過ぎない、と言わんばかりに、徹底して個にこだわった。
「イメージの詩」は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない 俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している。
こうして「関西フォークの流れ」と一定の距離をとりながら、音楽アーティストしてのアイデンティティを確立していく。
南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか!?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。
衝撃のシンガーソングライターでした」と拓郎を評した。
柴門ふみは「それまでのフォークソングとは違って絵空事ではないリアリティのある歌詞に、私たち若者の心はストレートに鷲掴みにされました」などと述べている。
小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ 僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」と述べた。
ROLLYと山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている。
かまやつひろしは「日本人は特にサウンド志向だから、僕なんかもサウンド志向でした。
だからフォークはあまり知らなくて、60年代中頃に流行していたカレッジ・フォークが大嫌いで、いとこの森山良子に『ヤメロ』と何度言ったか分からないんです ところが吉田拓郎さん以後のフォークの詞ってちょっとブラックでね、苦笑しちゃうような そこに惹かれたんだな だけどフォークがメジャーになるとは思いませんでした」と述べた。
鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね 僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている。
小室哲哉は「英語を使わずに自由に表現する歌詞、何もかもかっこいい」と評している。
拓郎自身「おいしいメロディがある」等、昔からインタビュー等で「盗作した」とはっきり発言をしており、小室哲哉との対談でも盗作(パクリ)談義が盛り上がった勢いからか、「いっぱい盗作しましたけどね」とはっきり言ってしまっている。
デビュー当時、東京にカレッジ・フォーク、関西に関西フォークがあったため、「広島のフォークソングがあったっていいじゃないか」という強い思いがあった。
関西フォークは元々が嫌いだったから、関西フォークを研究し、関西フォークは、"私たち""ぼくたち""きみたち"という歌詞が多いことに気づき、それで、"私""ぼく""きみ"という私的な、個的な歌詞の歌を作ろうと決めた。
拓郎と同い年の岡林信康は「私たち」と歌ったが、拓郎は「私」と歌った。
「連帯」を求めた岡林に対して、「私たち」なんて幻想に過ぎない、と言わんばかりに、徹底して個にこだわった。
「イメージの詩」は、「岡林の『私達の望むものは』に感動はしたが、「"私たちは"と言えない 俺は"俺"っていう歌を作りたい」という意図で作ったと話している。
こうして「関西フォークの流れ」と一定の距離をとりながら、音楽アーティストしてのアイデンティティを確立していく。
南こうせつは「僕らが『ああ夕日が綺麗だね、君のこと愛してるよ』とかという詞が多かったのに『これこそはと信じられるものがこの世にあるだろうか!?~』って初めて聴いて、そんなことを詞に平気にして歌うっていう、カッコ良かったし、ショックでした。
衝撃のシンガーソングライターでした」と拓郎を評した。
柴門ふみは「それまでのフォークソングとは違って絵空事ではないリアリティのある歌詞に、私たち若者の心はストレートに鷲掴みにされました」などと述べている。
小西康陽は「拓郎さんの『今日までそして明日から』をはじめて聴いたときのインパクトは凄かったです ほかの作品とは比べものにならないくらい、言葉が入ってきたんですよ 僕はザ・フォーク・クルセダーズもジャックスも岡林信康も聴いていたんですが、それらとはまったく違うインパクトがありました」と述べた。
ROLLYと山本恭司は「『青春の詩』を初めて聴いた時、心の深いところに突き刺さった」等と述べている。
かまやつひろしは「日本人は特にサウンド志向だから、僕なんかもサウンド志向でした。
だからフォークはあまり知らなくて、60年代中頃に流行していたカレッジ・フォークが大嫌いで、いとこの森山良子に『ヤメロ』と何度言ったか分からないんです ところが吉田拓郎さん以後のフォークの詞ってちょっとブラックでね、苦笑しちゃうような そこに惹かれたんだな だけどフォークがメジャーになるとは思いませんでした」と述べた。
鮎川誠は「高田渡や吉田拓郎や友部正人たち、フォークの人たちが日本語で歌いよるの見とってね 僕らもブルースを深くまでかじって、これを生かして日本語のオリジナル曲を作った」等と述べている。
小室哲哉は「英語を使わずに自由に表現する歌詞、何もかもかっこいい」と評している。
2023/3/14(火)



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