吉田拓郎
と スージー鈴木
よしだ たくろう 吉田拓郎 |
吉田 拓郎(よしだ たくろう、1946年〈昭和21年〉4月5日 - )は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ、広島県広島市育ち。 |
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それまで自作自演は一部のフォークだけだったが、拓郎以降、それが一般化した。
1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった。
桑田佳祐は「拓郎さん目標に、憧れて音楽やってきた人、私もそうですけど、いっぱいいます 私は高校1年の時ですよ、『元気です 』『人間なんて』…その風を真正面に受けて、夢を見せてもらいました」等と述べている。
松井五郎は「自分でバンドを組んで音楽をやるようになったのは、井上陽水さんや吉田拓郎さんのようなシンガー・ソングライターによるフォーク・ムーブメントがきっかけで、拓郎さんのモノマネというか、身近な恋の話をテーマにした歌を作り始めました」と述べている。
柴門ふみは「当時の歌謡曲の男と女の色恋沙汰は、夜のネオン街にしかないような世界観で そこに拓郎さんが、もうちょっとポピュラーな心情、若者のリアルな恋愛感情までも歌った。
だから私を含めて若者たちは『これは私たちの音楽だ』と飛び付いたのです 拓郎さんの影響力は大きくて、同級生の男の子たちはギターを弾き始めてましたね」と述べている。
原田真二は「吉田拓郎というアーティストは、時代を築いた偉大な方です 個性の強い声や歌い方、オリジナリティーあふれる音楽の世界 女性、男性を問わず幅広いファンに、時代を超えて今も支持されています すごいとしか言いようがありません」等と評している。
スージー鈴木は「若者にギターを持たせ、『自分の言葉で歌っていいんだ』と思わせたのは、拓郎の最も大きな功績 日本人が自分の言葉で歌詞を書き、メロディを作って歌う『Jポップ』の礎を作ったのが拓郎と言える」と論じている。
拓郎の影響でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた。
拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた。
拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ 誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた。
男の子は勿論、女性のギター人口「ギター女子」をも増やした。
竹内まりやは「音楽の入り口は拓郎さんのデビュー曲『イメージの詩』だったんですよ センセーショナルでしたよね!、当時の女の子はアイドル的にみんな拓郎さんが大好きでした」等と話している。
スージー鈴木は「拓郎は『イメージの詩』で、それまでの若者が聞いたことがなかったような普段着の言葉と飾らないメロディを引っさげて音楽シーンに登場した。
60年代に人気を博したクラシカルでエレガントなグループサウンズとは異なる、心の奥底をさらけ出すような言葉遣いは拓郎が持ち込んだと言っても過言ではない」と論じている。
こうした作詞法や作曲法、テーマ設定、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった。
渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ 2022年6月13日放送のbayfm『スージー鈴木とミラッキ大村の6の音粋』では、吉田拓郎の影響下にある楽曲を集めた「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」が組まれた。
中将タカノリは「それまでのフォークは弾き語りに毛の生えた程度の音楽が多かったんですが、拓郎さんはR&Bやロック・ポップスなどの知識に長けた人だったから、音楽的にも単なる弾き語りだけじゃなくバンドサウンドにこだわり、フォークをポップスに昇華する役割を果たしたと思う」、篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている。
矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。
拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」と批判した。
牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている。
イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。
初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた。
スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う 『元気です 』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」と述べた。
スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉、桑田佳祐 そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている。
但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。
拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。
1970年代から、少なくともフォークやロックは自作自演であることが大前提になっていくが、拓郎はそのきっかけになった。
桑田佳祐は「拓郎さん目標に、憧れて音楽やってきた人、私もそうですけど、いっぱいいます 私は高校1年の時ですよ、『元気です 』『人間なんて』…その風を真正面に受けて、夢を見せてもらいました」等と述べている。
松井五郎は「自分でバンドを組んで音楽をやるようになったのは、井上陽水さんや吉田拓郎さんのようなシンガー・ソングライターによるフォーク・ムーブメントがきっかけで、拓郎さんのモノマネというか、身近な恋の話をテーマにした歌を作り始めました」と述べている。
柴門ふみは「当時の歌謡曲の男と女の色恋沙汰は、夜のネオン街にしかないような世界観で そこに拓郎さんが、もうちょっとポピュラーな心情、若者のリアルな恋愛感情までも歌った。
だから私を含めて若者たちは『これは私たちの音楽だ』と飛び付いたのです 拓郎さんの影響力は大きくて、同級生の男の子たちはギターを弾き始めてましたね」と述べている。
原田真二は「吉田拓郎というアーティストは、時代を築いた偉大な方です 個性の強い声や歌い方、オリジナリティーあふれる音楽の世界 女性、男性を問わず幅広いファンに、時代を超えて今も支持されています すごいとしか言いようがありません」等と評している。
スージー鈴木は「若者にギターを持たせ、『自分の言葉で歌っていいんだ』と思わせたのは、拓郎の最も大きな功績 日本人が自分の言葉で歌詞を書き、メロディを作って歌う『Jポップ』の礎を作ったのが拓郎と言える」と論じている。
拓郎の影響でギター、ダンガリーのシャツ、ジーパンが非常に良く売れた。
拓郎以前は外国人ミュージシャンのコピーが主流であったが、拓郎以降は拓郎をコピーする若者が増えた。
拓郎がフォークの大ヒットを出したことでブームは中学生にまで及んだ 誰でも拓郎になれる、と当時の若者は信じた。
男の子は勿論、女性のギター人口「ギター女子」をも増やした。
竹内まりやは「音楽の入り口は拓郎さんのデビュー曲『イメージの詩』だったんですよ センセーショナルでしたよね!、当時の女の子はアイドル的にみんな拓郎さんが大好きでした」等と話している。
スージー鈴木は「拓郎は『イメージの詩』で、それまでの若者が聞いたことがなかったような普段着の言葉と飾らないメロディを引っさげて音楽シーンに登場した。
60年代に人気を博したクラシカルでエレガントなグループサウンズとは異なる、心の奥底をさらけ出すような言葉遣いは拓郎が持ち込んだと言っても過言ではない」と論じている。
こうした作詞法や作曲法、テーマ設定、楽曲アレンジ、歌唱法などは、その後の日本のフォークとロックに有形無形の影響を与えることとなった。
渡辺プロダクションのお抱え編曲家だった東海林修は「旅の宿」が世に出たとき、ニューミュージックのパワーより、フォークやロックを回路して滲み出てきた日本の土着性を聴き分け「豆腐と障子紙以外に、はじめて日本のオリジナルが出た」と唸ったという ナベプロにニューミュージックのセクションが創設されたのは「旅の宿」の大ヒットがきっかけ 2022年6月13日放送のbayfm『スージー鈴木とミラッキ大村の6の音粋』では、吉田拓郎の影響下にある楽曲を集めた「吉田拓郎のいない吉田拓郎特集」が組まれた。
中将タカノリは「それまでのフォークは弾き語りに毛の生えた程度の音楽が多かったんですが、拓郎さんはR&Bやロック・ポップスなどの知識に長けた人だったから、音楽的にも単なる弾き語りだけじゃなくバンドサウンドにこだわり、フォークをポップスに昇華する役割を果たしたと思う」、篠原章は「『青春の詩』で試みた反体制イディオムと青春歌謡を直結させる手法は新鮮で、後のロッカーもこの手法を無意識に踏襲している」、相倉久人は、1976年6月14日、21日号の「日本読書新聞」に掲載した「日本語ロック」に関する評論で「アメリカの物まねからスタートしたフォークが、吉田拓郎や泉谷しげるたちの成功によって、ロックやソウルにさきがけて、現代にふさわしい日本語的な表現に到達した」、スージー鈴木は「吉田拓郎は二面性があって、非常にポップで都会的な曲を作って、ビートルズの洋楽性を日本の音楽界にもたらした人間でもありながら、日本の土着性を表現した曲もたくさん歌っている」、北中正和は「吉田拓郎の音楽の衝撃は、短音階の曲とロック的なサウンドを結びつけたこと」と論じている。
矢沢保は「吉田拓郎は、もともと真のフォークソングとは何の関係もない歌手だが、全共闘の協力でLPを出したのを出発点に、CBSソニーという大資本に乗りかえて、自分の身体もろとも、フォークソングを売り渡し、すっかり『現代歌謡曲』にしてしまった。
拓郎の場合は、かつて全学連委員長だった香山健一が学習院大学教授におさまりかえって自民党の走狗になり下っているのと、あまりにも似ているように思います」と批判した。
牧村憲一は「拓郎さんは大きく分けるとフォークの世界の人なんですけど、彼の果たした役割というのは、サウンドの世界とフォークの世界のちょうど中間に立ってて、両方をうまく仲介できた」と述べている。
イルカは「フォークもロックも、後ろで支えていた人たちは交流がありました。
初期の矢沢永吉さんのスタッフの中には吉田拓郎さんを支えていた方が入り交じっていました」と述べた。
スペクトラムの元メンバーで、KUWATA BANDのリーダーを務めた今野拓郎(今野多久郎)は、「吉田拓郎の歌に出会って"男"とはこうあるべきだということを、中学生の私は初めて考え、学んだように思う 『元気です 』のアナログ盤を四六時中聴き、ギターをかき鳴らした私はその後もずっと吉田拓郎の歌を"元"に人生を生きてきたと感じている」と述べた。
スージー鈴木は「あくまで個人的意見として、日本の“ロック人”を3人に絞るとすれば、吉田拓郎、矢沢永吉、桑田佳祐 そして、たった1人選ぶとすれば――桑田佳祐」と論じている。
但し、「吉田拓郎は矢沢永吉や桑田佳祐の登場以上の社会的現象だった」と述べている。
拓郎と陽水によって成されたフォークメジャー化の流れが、ニューミュージックやジャパニーズロックへつながっていく。
2023/3/14(火)



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