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赤井英和 ボクシング

あかい ひでかず
赤井英和
赤井 英和(あかい ひでかず、本名同じ、1959年8月17日 - )は、日本の俳優、タレント。元プロボクサー。プランニングメイ所属。血液型はA型。身長178cm、体重82kg。大阪府大阪市西成区出身。大阪市立今宮中学校、私立浪速高等学校、近畿大学商学部卒。 ボクサーとして「浪速のロッキー」の異名を取る活躍を見せた後、俳優に転身。現在は、大阪ではバラエティタレントとしての活動、東京では俳優としての活動が主体である。



浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。
浪高の2学年下のインターハイチャンピオン・釘田修吉(現在タレントの和泉修)とは今も交友がある。
同期で大阪のライバル、浪商高校のボクシング部には後の1984年ロサンゼルスオリンピック日本代表で名城信男の恩師でもある高見公明もいた。
高見は赤井と同じインターハイで優勝している。
1980年モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる(ライト級、代表は荒井幸人)。
その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)に入門。
アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。
この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。
しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した。
その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。
赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。
しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。
この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。
引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る。
エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある。
そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。
この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。
大阪新世界に、赤井はじめ彼の先輩・後輩たちが立ち寄っていた串カツ店「だるま」がある。
赤井は学生時代以来、ボクシングの練習の帰りや、引退してからは大阪に来る度に立ち寄る常連客であった。
しかし、2000年頃、店主の病気の関係上から廃業を検討していた。
赤井は「このままではいけない、何とか存続させたい」と奔走し、高校時代のボクシング部の後輩を引き抜き、店主の元で修業させた。
こうして「だるま」は再び暖簾を上げ、以降も2号店、3号店をオープンさせる盛況となった。
2011年8月7日、日本アマチュアボクシング連盟特別委員会の決定として、プロ経験者のアマチュアボクシング復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の適用第1号となる。
2012年10月、2009年に部員の不祥事により廃部になっていた母校近畿大学ボクシング部が活動再開するにあたり、総監督に就任。
これにより指導者としてではあるが、赤井は再びボクシング界に復帰した。
その後、大阪圏でのテレビのレギュラー番組が無くなったことにより来阪および部員への定期的な指導が難しくなったことから、2016年4月に総監督を退任して名誉監督となった。
おしどり夫婦として知られる佳子とは1993年に結婚。
結婚に至った経緯は、佳子が英和の実家に押し掛けたことだった。
1998年に双子の娘(英五郎、英佳の妹2人)が誕生したが28週の早産で未熟児だったため、ももこちゃんはわずか3日で、さくらこちゃんは生まれつきの「脳軟化症」という病気により闘病の末7ヵ月で亡くなった。
その後、佳子との間に生まれた長男の英五郎は、2015年よりアマチュアボクシング選手として、リオオリンピック出場を目指す 英和は、モスクワオリンピックの代表候補だったが、ボイコットで出場は出来なかった。
英五郎は父が果たせなかった五輪出場を目指していたが、左アキレス腱(けん)断裂、左手首のじん帯断裂と怪我が重なり五輪の夢は儚く散った。
英五郎は、その後手術を経て2021年9月に名門・帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした。
ちなみに完全な一致とは言えないが英和が「20歳でプロデビューし、25歳でプロを引退」し、英五郎は「20歳でアマデビューし、25歳でアマを引退」と英五郎が思っている共通点もある。
2023/9/22(金)
浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。浪高の2学年下のインターハイチャンピオン・釘田修吉(現在タレントの和泉修)とは今も交友がある。同期で大阪のライバル、浪商高校のボクシング部には後の1984年ロサンゼルスオリンピック日本代表で名城信男の恩師でもある高見公明もいた。高見は赤井と同じインターハイで優勝している。1980年モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる(ライト級、代表は荒井幸人)。その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)に入門。アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。

この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。

赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。

引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。

大阪新世界に、赤井はじめ彼の先輩・後輩たちが立ち寄っていた串カツ店「だるま」がある 赤井は学生時代以来、ボクシングの練習の帰りや、引退してからは大阪に来る度に立ち寄る常連客であった しかし、2000年頃、店主の病気の関係上から廃業を検討していた 赤井は「このままではいけない、何とか存続させたい」と奔走し、高校時代のボクシング部の後輩を引き抜き、店主の元で修業させた こうして「だるま」は再び暖簾を上げ、以降も2号店、3号店をオープンさせる盛況となった。

2011年8月7日、日本アマチュアボクシング連盟特別委員会の決定として、プロ経験者のアマチュアボクシング復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の適用第1号となる。

2012年10月、2009年に部員の不祥事により廃部になっていた母校近畿大学ボクシング部が活動再開するにあたり、総監督に就任。これにより指導者としてではあるが、赤井は再びボクシング界に復帰した。その後、大阪圏でのテレビのレギュラー番組が無くなったことにより来阪および部員への定期的な指導が難しくなったことから、2016年4月に総監督を退任して名誉監督となった。

おしどり夫婦として知られる佳子とは1993年に結婚。結婚に至った経緯は、佳子が英和の実家に押し掛けたことだった。1998年に双子の娘(英五郎、英佳の妹2人)が誕生したが28週の早産で未熟児だったため、ももこちゃんはわずか3日で、さくらこちゃんは生まれつきの「脳軟化症」という病気により闘病の末7ヵ月で亡くなった その後、佳子との間に生まれた長男の英五郎は、2015年よりアマチュアボクシング選手として、リオオリンピック出場を目指す 英和は、モスクワオリンピックの代表候補だったが、ボイコットで出場は出来なかった 英五郎は父が果たせなかった五輪出場を目指していたが、左アキレス腱(けん)断裂、左手首のじん帯断裂と怪我が重なり五輪の夢は儚く散った 英五郎は、その後手術を経て2021年9月に名門・帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした ちなみに完全な一致とは言えないが英和が「20歳でプロデビューし、25歳でプロを引退」し、英五郎は「20歳でアマデビューし、25歳でアマを引退」と英五郎が思っている共通点もある。
浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。浪高の2学年下のインターハイチャンピオン・釘田修吉(現在タレントの和泉修)とは今も交友がある。同期で大阪のライバル、浪商高校のボクシング部には後の1984年ロサンゼルスオリンピック日本代表で名城信男の恩師でもある高見公明もいた。高見は赤井と同じインターハイで優勝している。1980年モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる(ライト級、代表は荒井幸人)。その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)に入門。アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。

この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。

赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。

引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。

大阪新世界に、赤井はじめ彼の先輩・後輩たちが立ち寄っていた串カツ店「だるま」がある 赤井は学生時代以来、ボクシングの練習の帰りや、引退してからは大阪に来る度に立ち寄る常連客であった しかし、2000年頃、店主の病気の関係上から廃業を検討していた 赤井は「このままではいけない、何とか存続させたい」と奔走し、高校時代のボクシング部の後輩を引き抜き、店主の元で修業させた こうして「だるま」は再び暖簾を上げ、以降も2号店、3号店をオープンさせる盛況となった。

2011年8月7日、日本アマチュアボクシング連盟特別委員会の決定として、プロ経験者のアマチュアボクシング復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の適用第1号となる。

2012年10月、2009年に部員の不祥事により廃部になっていた母校近畿大学ボクシング部が活動再開するにあたり、総監督に就任。これにより指導者としてではあるが、赤井は再びボクシング界に復帰した。その後、大阪圏でのテレビのレギュラー番組が無くなったことにより来阪および部員への定期的な指導が難しくなったことから、2016年4月に総監督を退任して名誉監督となった。

おしどり夫婦として知られる佳子とは1993年に結婚。結婚に至った経緯は、佳子が英和の実家に押し掛けたことだった。1998年に双子の娘(英五郎、英佳の妹2人)が誕生したが28週の早産で未熟児だったため、ももこちゃんはわずか3日で、さくらこちゃんは生まれつきの「脳軟化症」という病気により闘病の末7ヵ月で亡くなった その後、佳子との間に生まれた長男の英五郎は、2015年よりアマチュアボクシング選手として、リオオリンピック出場を目指す 英和は、モスクワオリンピックの代表候補だったが、ボイコットで出場は出来なかった 英五郎は父が果たせなかった五輪出場を目指していたが、左アキレス腱(けん)断裂、左手首のじん帯断裂と怪我が重なり五輪の夢は儚く散った 英五郎は、その後手術を経て2021年9月に名門・帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした ちなみに完全な一致とは言えないが英和が「20歳でプロデビューし、25歳でプロを引退」し、英五郎は「20歳でアマデビューし、25歳でアマを引退」と英五郎が思っている共通点もある。
浪速高等学校(浪高)入学と同時にボクシング部で活躍し、3年生にライトウェルター級でインターハイ、アジアジュニアアマチュアボクシング選手権を優勝した実績を引っさげて、近畿大学進学、東京オリンピック日本代表浜田吉治郎の指導を受けた。浪高の2学年下のインターハイチャンピオン・釘田修吉(現在タレントの和泉修)とは今も交友がある。同期で大阪のライバル、浪商高校のボクシング部には後の1984年ロサンゼルスオリンピック日本代表で名城信男の恩師でもある高見公明もいた。高見は赤井と同じインターハイで優勝している。1980年モスクワオリンピックでも日本代表は確実視されたが結局補欠にとどまる(ライト級、代表は荒井幸人)。その後、いわゆる東西冷戦のあおりを受けての日本代表の出場辞退(ボイコット)により、モスクワオリンピック出場への道を完全に断たれたことから学生プロボクサーに転向することが決まり、1980年9月愛寿ボクシングジム(現グリーンツダボクシングジム)に入門。アマチュア時代は、新進ボクシングジム(現新日本大阪ボクシングジム)に、在籍していた。

この生死をさまよっていた時、浪速高等学校ボクシング部の先輩であった藤本義一は、気の早いあるスポーツ紙に追悼文を書くように依頼されたという。しかし、「(まだ死んでもいないのに)冗談じゃない!」と一蹴した その後赤井は、藤本と出会った際に「ありがとうございました」と、お礼を言ったという。

赤井自身は、引退後に節制とは縁遠い生活を続けた影響で、トレーニング前には現役時代の全盛期から体重が16kgも増えていた。しかし、「50歳の自分が真剣に戦うことで、(部員の不祥事で2009年6月に廃部へ追い込まれた)近畿大学ボクシング部の後輩たちに、“ボクシングは素晴らしい”とのメッセージを送りたい」との決意を胸に、178ラウンドに及ぶトレーニングで、5.2kgの減量に成功。この減量で体重が75kgを切ったことから、母校の浪速高校内に設けられたリングで、長谷川との対戦を実現させた。

引退後、母校・近畿大学のボクシング部コーチなど後継者育成を行っていたが、1988年に映画『またまたあぶない刑事』にゲスト出演し、俳優デビューを飾る エンドロールには、名前の隣に「(浪花のロッキー)」のテロップがある そして1989年に上映された阪本順治監督の『どついたるねん』で主役デビュー。この映画は赤井自身のボクサーとしての半生を絡ませた自伝的作品で、現役最終戦の対戦相手となった大和田も特別友情出演として登場し、その壮絶なファイトを再現した。

大阪新世界に、赤井はじめ彼の先輩・後輩たちが立ち寄っていた串カツ店「だるま」がある 赤井は学生時代以来、ボクシングの練習の帰りや、引退してからは大阪に来る度に立ち寄る常連客であった しかし、2000年頃、店主の病気の関係上から廃業を検討していた 赤井は「このままではいけない、何とか存続させたい」と奔走し、高校時代のボクシング部の後輩を引き抜き、店主の元で修業させた こうして「だるま」は再び暖簾を上げ、以降も2号店、3号店をオープンさせる盛況となった。

2011年8月7日、日本アマチュアボクシング連盟特別委員会の決定として、プロ経験者のアマチュアボクシング復帰を認める規則により、アマチュアボクシング指導資格の適用第1号となる。

2012年10月、2009年に部員の不祥事により廃部になっていた母校近畿大学ボクシング部が活動再開するにあたり、総監督に就任。これにより指導者としてではあるが、赤井は再びボクシング界に復帰した。その後、大阪圏でのテレビのレギュラー番組が無くなったことにより来阪および部員への定期的な指導が難しくなったことから、2016年4月に総監督を退任して名誉監督となった。

おしどり夫婦として知られる佳子とは1993年に結婚。結婚に至った経緯は、佳子が英和の実家に押し掛けたことだった。1998年に双子の娘(英五郎、英佳の妹2人)が誕生したが28週の早産で未熟児だったため、ももこちゃんはわずか3日で、さくらこちゃんは生まれつきの「脳軟化症」という病気により闘病の末7ヵ月で亡くなった その後、佳子との間に生まれた長男の英五郎は、2015年よりアマチュアボクシング選手として、リオオリンピック出場を目指す 英和は、モスクワオリンピックの代表候補だったが、ボイコットで出場は出来なかった 英五郎は父が果たせなかった五輪出場を目指していたが、左アキレス腱(けん)断裂、左手首のじん帯断裂と怪我が重なり五輪の夢は儚く散った 英五郎は、その後手術を経て2021年9月に名門・帝拳ジムからプロボクサーとしてデビューした ちなみに完全な一致とは言えないが英和が「20歳でプロデビューし、25歳でプロを引退」し、英五郎は「20歳でアマデビューし、25歳でアマを引退」と英五郎が思っている共通点もある。
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