荒川静香
と 世界選手権
あらかわ しずか 荒川静香 |
荒川 静香(あらかわ しずか、1981年12月29日 - )は、神奈川県鎌倉市出身の、1990年代から2000年代にかけて活躍した日本のフィギュアスケート選手(女子シングル)である。日本スケート連盟副会長(2014年9月-) 。マネジメントはユニバーサルスポーツマーケティング「USM」在籍。 主な戦績は、2006年トリノオリンピック金メダル、2004年世界選手権優勝、1998年長野オリンピック13位、1997年・1998年全日本選手権2連覇、2003年ユニバーシアード冬季大会・冬季アジア競技大会・2004年NHK杯各優勝、2004年GPファイナル2位など。 神奈川県鎌倉市出身だが、利府町に約10年間住んでいた縁から、利府町の観光大使に就任。 アジア選手として初めて冬季オリンピックフィギュアスケート競技で金メダルを獲得し、「東洋の女神」と称えられた。 |
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主な戦績は、2006年トリノオリンピック金メダル、2004年世界選手権優勝、1998年長野オリンピック13位、1997年・1998年全日本選手権2連覇、2003年ユニバーシアード冬季大会・冬季アジア競技大会・2004年NHK杯各優勝、2004年GPファイナル2位など。
1994年、中学1年生で2度目の全日本ジュニア選手権に出場し優勝、以降この大会で史上初の3連覇を果たした。
同様に全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも3連覇を達成した。
1995年、中学2年生で出場した国際大会のネーベルホルン杯では3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させてシニアの部で優勝。
1997年、中学3年生でシニアの第65回全日本選手権に特例出場し、村主章枝に次いで2位に入った。
同年の世界選手権の日本女子シングル代表枠は2枠だったが、荒川にはまだシニアでの実績がなかったためと、同回全日本選手権にケガで欠場した横谷花絵が特例で選出されたため、荒川の世界選手権入りはならなかった。
シニアへ完全移行1年目の1997-1998シーズン、第66回全日本選手権でライバルの村主らと競り合う中で高校1年生で初優勝を果たし、1枠しかなかった1998年長野オリンピックと1998年世界選手権の代表の座を勝ち取る。
自身初のオリンピック出場となる長野五輪女子シングルでは、SPでは3回転ルッツ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させたが、フリップがダブルとなり14位。
フリーではルッツが2回共2回転と失敗、最後の3回転トウループを転倒するなど本調子では無かったが14位、総合で13位に入った。
しかし一方、同じく初の代表だった1998年世界選手権では、ジャンプミスが続いて総合22位に終わった。
1998-1999シーズン、第67回全日本選手権では再び村主に競り勝ち2連覇を果たす。
1999年アジア冬季競技大会では2位となったが、この年から始まった1999年四大陸選手権で6位に終わり、1999年世界選手権の代表入りを逃した。
1999-2000シーズンは不調で低迷、昨年に続き世界選手権に選出されなかった。
2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔に師事、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。
2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝。
さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となった。
世界選手権直前に、リチャード・キャラハンの指導を受けることになった『氷上のアーティストたち』p.17。
5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきった。
フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となった。
2003-2004シーズンは本格的にアメリカに練習場所を移し、キャラハンコーチの下で練習を続けた。
GPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれた。
世界選手権の3週間前、急遽コーチをタチアナ・タラソワに変更日本スケート連盟の城田憲子が、2003年暮れに日本を訪れていたアレクセイ・ヤグディンからサーシャ・コーエンとタラソワの離縁を聞きつけ、タラソワの確保に走った。
。
世界選手権はフリーで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを含む全ての要素を完璧に決め、技術点では6.0満点も獲得して総合優勝を果たし、日本人選手として10年ぶり3人目の金メダリストに輝いた。
実はこの当時、予選直前に左足坐骨を骨折する大ケガを負ったが、軽い肉離れだと思って競技を続けていたという。
当時はシーズンいっぱいでの競技引退、プロスケーター転向を決意していたが、大学卒業後もプリンスホテルに所属して競技を続けることになった。
卒業論文は「スポーツとマスコミの考察」。
元々マスコミが苦手であったが、研究することで取材する側の気持ちが理解できるようになったという。
2004-2005シーズン、NHK杯で初優勝。
GPファイナルでは自身最高の2位に入る。
しかし全日本選手権はSP1位だったが、足の怪我でフリーを棄権。
それでも昨年優勝の実績により、世界選手権に3年連続で選出された。
世界選手権のSPは5位につけたが、フリー演技では必須のアクセルジャンプを跳び忘れるなどで得点が伸びず、総合9位に沈んだ。
2005年12月、タラソワとの師弟関係を解消する。
理由は、タラソワの新採点方式への対応が遅れていたので氷上で直接指導するニコライ・モロゾフについてステップのレベルを上げようとしたところ、タラソワとモロゾフが共同作業を拒んだため。
その後、正式にモロゾフの指導を受けることにし、国内では佐藤久美子に師事することとなった。
加えて、SPとフリーのプログラムを同時に変更した。
フリーで使用していた「幻想即興曲」をSPに回し、フリーは2004年世界選手権優勝時にも使用した「トゥーランドット」にした。
トリノ五輪後の世界選手権(3月19日 - 26日)にも選ばれていたが、調整不足のため出場を辞退した(代替選手は恩田美栄)。
同選手権終了の次の日にあたる3月27日(月)、仙台市都心部の東二番丁通りにて凱旋パレードが実施され、沿道には約7万3000人の観衆が集まった。
同年5月7日、記者会見でアマチュア競技引退とプロ転向を表明。
会見の席で「今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい」と語った。
1994年、中学1年生で2度目の全日本ジュニア選手権に出場し優勝、以降この大会で史上初の3連覇を果たした。
同様に全国中学校スケート・アイスホッケー大会でも3連覇を達成した。
1995年、中学2年生で出場した国際大会のネーベルホルン杯では3回転-3回転のコンビネーションジャンプを成功させてシニアの部で優勝。
1997年、中学3年生でシニアの第65回全日本選手権に特例出場し、村主章枝に次いで2位に入った。
同年の世界選手権の日本女子シングル代表枠は2枠だったが、荒川にはまだシニアでの実績がなかったためと、同回全日本選手権にケガで欠場した横谷花絵が特例で選出されたため、荒川の世界選手権入りはならなかった。
シニアへ完全移行1年目の1997-1998シーズン、第66回全日本選手権でライバルの村主らと競り合う中で高校1年生で初優勝を果たし、1枠しかなかった1998年長野オリンピックと1998年世界選手権の代表の座を勝ち取る。
自身初のオリンピック出場となる長野五輪女子シングルでは、SPでは3回転ルッツ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを成功させたが、フリップがダブルとなり14位。
フリーではルッツが2回共2回転と失敗、最後の3回転トウループを転倒するなど本調子では無かったが14位、総合で13位に入った。
しかし一方、同じく初の代表だった1998年世界選手権では、ジャンプミスが続いて総合22位に終わった。
1998-1999シーズン、第67回全日本選手権では再び村主に競り勝ち2連覇を果たす。
1999年アジア冬季競技大会では2位となったが、この年から始まった1999年四大陸選手権で6位に終わり、1999年世界選手権の代表入りを逃した。
1999-2000シーズンは不調で低迷、昨年に続き世界選手権に選出されなかった。
2002-2003シーズン、練習拠点を神宮外苑スケート場に移し佐野稔に師事、振付はニコライ・モロゾフに依頼した。
2002年末の第71回全日本選手権で3位になった後、年明けはユニバーシアード冬季競技大会、冬季アジア大会で立て続けに優勝。
さらに四大陸選手権では2年連続の2位、初進出のグランプリファイナルでは4位となった。
世界選手権直前に、リチャード・キャラハンの指導を受けることになった『氷上のアーティストたち』p.17。
5年ぶりに出場した世界選手権では、SPでスピンに入る前に氷の溝にはまる不運で転倒、さらに肩を脱臼するアクシデントに見舞われたが、スピンをしながら肩をはめ直し最後まで滑りきった。
フリーでは3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループと高難度のコンビネーションを決め、初の入賞となる総合8位となった。
2003-2004シーズンは本格的にアメリカに練習場所を移し、キャラハンコーチの下で練習を続けた。
GPファイナルを含むGPシリーズ4戦全てで表彰台に上がり、全日本選手権3位ながら世界選手権の代表に選ばれた。
世界選手権の3週間前、急遽コーチをタチアナ・タラソワに変更日本スケート連盟の城田憲子が、2003年暮れに日本を訪れていたアレクセイ・ヤグディンからサーシャ・コーエンとタラソワの離縁を聞きつけ、タラソワの確保に走った。
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世界選手権はフリーで3回転ルッツ-3回転トウループ-2回転ループ、3回転サルコウ-3回転トウループのコンビネーションジャンプを含む全ての要素を完璧に決め、技術点では6.0満点も獲得して総合優勝を果たし、日本人選手として10年ぶり3人目の金メダリストに輝いた。
実はこの当時、予選直前に左足坐骨を骨折する大ケガを負ったが、軽い肉離れだと思って競技を続けていたという。
当時はシーズンいっぱいでの競技引退、プロスケーター転向を決意していたが、大学卒業後もプリンスホテルに所属して競技を続けることになった。
卒業論文は「スポーツとマスコミの考察」。
元々マスコミが苦手であったが、研究することで取材する側の気持ちが理解できるようになったという。
2004-2005シーズン、NHK杯で初優勝。
GPファイナルでは自身最高の2位に入る。
しかし全日本選手権はSP1位だったが、足の怪我でフリーを棄権。
それでも昨年優勝の実績により、世界選手権に3年連続で選出された。
世界選手権のSPは5位につけたが、フリー演技では必須のアクセルジャンプを跳び忘れるなどで得点が伸びず、総合9位に沈んだ。
2005年12月、タラソワとの師弟関係を解消する。
理由は、タラソワの新採点方式への対応が遅れていたので氷上で直接指導するニコライ・モロゾフについてステップのレベルを上げようとしたところ、タラソワとモロゾフが共同作業を拒んだため。
その後、正式にモロゾフの指導を受けることにし、国内では佐藤久美子に師事することとなった。
加えて、SPとフリーのプログラムを同時に変更した。
フリーで使用していた「幻想即興曲」をSPに回し、フリーは2004年世界選手権優勝時にも使用した「トゥーランドット」にした。
トリノ五輪後の世界選手権(3月19日 - 26日)にも選ばれていたが、調整不足のため出場を辞退した(代替選手は恩田美栄)。
同選手権終了の次の日にあたる3月27日(月)、仙台市都心部の東二番丁通りにて凱旋パレードが実施され、沿道には約7万3000人の観衆が集まった。
同年5月7日、記者会見でアマチュア競技引退とプロ転向を表明。
会見の席で「今後は自身の演技力の向上やスケート界を広くサポートしていきたい」と語った。
2023/9/2(土)



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