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蛭子能収
蛭子 能収(えびす よしかず、1947年10月21日 - )は、日本の漫画家、タレント、エッセイスト。ファザーズコーポレーション所属。



会社員時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ 心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。
糸井重里と湯村輝彦が共作した不条理漫画『ペンギンごはん』シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年7月号掲載の「愛の嵐」を最後に沈黙 以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載「地獄のサラリーマン」まで5年間途絶えることになる。
次第に蛭子は職業漫画家に限界を感じるようになり、郷里の長崎に帰る決意を固める。
また高杉と山崎の第一印象についても「ヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私が今まで付き合っているサラリーマン風な若者とはまるで違っていて、私は何やら胡散臭いなと思った」と回想するなど、決して好印象を与えるものではなかったというが、蛭子はこの二人の編集者に対して「オレの漫画に初めてお金を払ってくれた人生の恩人」「『ガロ』に作品が掲載されたものの、まったくの無名だったオレをプロの漫画家にしてくれた」と感謝しており、のちに蛭子は「そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ 隔月でキチンと締め切りもあったし それでこの二人を信用するようになったんです その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです だから『Jam』の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです」「私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである。
そして不当に扱われている自動販売機の本がいとおしくなった」 と述懐している。
独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる。
作品は狂気と悪意に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている。
登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く、いずれも尋常でない汗をかいている。
背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOやドクロが置かれ、ストーリーの内容も「因果で陰鬱なプロット」「意味のない掛け合い」「オチのない結末」などが多く、救いのないオチがほとんどで、もはや言語解説不可能な域に達している。
特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と述べており、内面からの狂気を描いたブラックな作品が多い 呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評している。
また早くから「ヘタウマ」というジャンルを確立した一人でもある。
後輩漫画家の山田花子は蛭子を「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価しており、漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している。
蛭子漫画の恐ろしさはここにある。
人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする。
蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す 彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」と述べている。
これについて蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね 描いたりするのがね 弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている。
1973年のデビューから「自由な創作」が行える漫画雑誌『ガロ』に投稿を続けていたが、青林堂の経営難により原稿料が支払われることは一度も無かった。
これについて蛭子本人は「あの出版社からは『ガロ』でデビューした時から35年間一度も原稿料もらっていません でも、いいんです オレはアングラの世界が好きだし、掲載してもらえるだけで嬉しいんです」と語っている。
『ガロ』の後継誌にあたる隔月発行の漫画雑誌『アックス』の連載でも青林工藝舎の経済的事情から「原稿料ゼロ」の状態が現在もなお続いている。
サラリーマンを辞めて漫画家になろうとした1981年頃、『ガロ』の名物編集長で知られる長井勝一と水道橋の路上を歩いていると、長井は蛭子に「青林堂はなかなか経営が良くならないけど、僕は蛭子さんで儲けさせてもらおうと思ってるんだよ」と真剣な顔で述べたことがあるという その時、蛭子は「果たして冗談で言ってるのだろうか、そもそも私の漫画ってそんなに売れるのだろうか?」と思い「社長、それは無理ですよ」と照れながらも真剣に言葉を返してしまったという 長井はそれから15年後の1996年に他界したが、蛭子は『ガロ』に寄稿した追悼文の中で「私は漫画では売れなかったけどテレビに出て自分のキャラクターで十分すぎる程食えるようになってしまった。
実は長井さんは私に言ったのは別に漫画に限って言ってるわけではなかったのではないかと思っているのですよ」と回想している。
テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
仕事観について「サラリーマンの仕事なんてみっともないことばかり、心の貧しい生活を強いられているのがサラリーマン」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる。
プライドはあんまり持たないこと」「夢を追いかけ続けるのはいいけど、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメ、衣食足りてこその夢の追求なのだから漫画だけで食えない作家は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら立派なことをしようと力まない方がいい」「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い 仕事で輝くという人生は変、人は競艇場で輝くために働くんです」という持論を持っており、テレビの仕事で心がけていることについては「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと 仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです」と述べている。
なお蛭子はクラスの同窓会で同級生にテレビの熱湯風呂の仕事を「みっともないことばかりしている」と言われたことがあるが、それに対して「あれ一回でサラリーマンの月収分稼いでいる」と心の中で言い返したことがあるという。
テレビ出演当初から「温厚で気が弱そうな人畜無害おじさん」として、出演者や司会者になじられても常にニコニコ笑っている印象で知られる。
そのため、いじられキャラやヨゴレ系キャラとしてバラエティ番組に出演させられることが多くなり、番組内でギョウ虫検査を受けさせられた事もある。
なかでも日本テレビの大晦日特番『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』内では「蛭子能収の汗を基に作られた塩大福を出演者が知らずに食べる」という過激なネタが放映され、全国の視聴者に強烈なトラウマを植え付ける事となった(ちなみに塩大福を食べたのは月亭方正と遠藤章造) しかし本人は依頼された仕事は生命に関わる仕事以外は絶対に断らない主義である。
これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという また、いつも笑っているのは「子供の頃から自然に身についたもの」としており「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか 言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね」と理由を述べている。
漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いは、その"くまのプーさん"の着ぐるみがずぶ濡れになった様な風体と独特のキャラクターがコメディー番組などで大いに受けるところとなった」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした。
だって、それではウソになってしまうから それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためには自分を偽らない事しか手段がなかったんです」と述べている。
2023/11/30(木)
会社員時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ 心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。

糸井重里と湯村輝彦が共作した不条理漫画『ペンギンごはん』シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年7月号掲載の「愛の嵐」を最後に沈黙 以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載「地獄のサラリーマン」まで5年間途絶えることになる。次第に蛭子は職業漫画家に限界を感じるようになり、郷里の長崎に帰る決意を固める。

また高杉と山崎の第一印象についても「ヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私が今まで付き合っているサラリーマン風な若者とはまるで違っていて、私は何やら胡散臭いなと思った」と回想するなど、決して好印象を与えるものではなかったというが、蛭子はこの二人の編集者に対して「オレの漫画に初めてお金を払ってくれた人生の恩人」「『ガロ』に作品が掲載されたものの、まったくの無名だったオレをプロの漫画家にしてくれた」と感謝しており、のちに蛭子は「そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ 隔月でキチンと締め切りもあったし それでこの二人を信用するようになったんです その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです だから『Jam』の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです」「私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである そして不当に扱われている自動販売機の本がいとおしくなった」 と述懐している。

独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる 作品は狂気と悪意に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている 登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く、いずれも尋常でない汗をかいている 背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOやドクロが置かれ、ストーリーの内容も「因果で陰鬱なプロット」「意味のない掛け合い」「オチのない結末」などが多く、救いのないオチがほとんどで、もはや言語解説不可能な域に達している 特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と述べており、内面からの狂気を描いたブラックな作品が多い 呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評している また早くから「ヘタウマ」というジャンルを確立した一人でもある。

後輩漫画家の山田花子は蛭子を「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価しており、漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している 蛭子漫画の恐ろしさはここにある 人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする 蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す 彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」と述べている これについて蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね 描いたりするのがね 弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている。

1973年のデビューから「自由な創作」が行える漫画雑誌『ガロ』に投稿を続けていたが、青林堂の経営難により原稿料が支払われることは一度も無かった これについて蛭子本人は「あの出版社からは『ガロ』でデビューした時から35年間一度も原稿料もらっていません でも、いいんです オレはアングラの世界が好きだし、掲載してもらえるだけで嬉しいんです」と語っている 『ガロ』の後継誌にあたる隔月発行の漫画雑誌『アックス』の連載でも青林工藝舎の経済的事情から「原稿料ゼロ」の状態が現在もなお続いている。
サラリーマンを辞めて漫画家になろうとした1981年頃、『ガロ』の名物編集長で知られる長井勝一と水道橋の路上を歩いていると、長井は蛭子に「青林堂はなかなか経営が良くならないけど、僕は蛭子さんで儲けさせてもらおうと思ってるんだよ」と真剣な顔で述べたことがあるという その時、蛭子は「果たして冗談で言ってるのだろうか、そもそも私の漫画ってそんなに売れるのだろうか?」と思い「社長、それは無理ですよ」と照れながらも真剣に言葉を返してしまったという 長井はそれから15年後の1996年に他界したが、蛭子は『ガロ』に寄稿した追悼文の中で「私は漫画では売れなかったけどテレビに出て自分のキャラクターで十分すぎる程食えるようになってしまった 実は長井さんは私に言ったのは別に漫画に限って言ってるわけではなかったのではないかと思っているのですよ」と回想している。
テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
仕事観について「サラリーマンの仕事なんてみっともないことばかり、心の貧しい生活を強いられているのがサラリーマン」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる プライドはあんまり持たないこと」「夢を追いかけ続けるのはいいけど、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメ、衣食足りてこその夢の追求なのだから漫画だけで食えない作家は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら立派なことをしようと力まない方がいい」「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い 仕事で輝くという人生は変、人は競艇場で輝くために働くんです」という持論を持っており、テレビの仕事で心がけていることについては「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと 仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです」と述べている なお蛭子はクラスの同窓会で同級生にテレビの熱湯風呂の仕事を「みっともないことばかりしている」と言われたことがあるが、それに対して「あれ一回でサラリーマンの月収分稼いでいる」と心の中で言い返したことがあるという。
テレビ出演当初から「温厚で気が弱そうな人畜無害おじさん」として、出演者や司会者になじられても常にニコニコ笑っている印象で知られる そのため、いじられキャラやヨゴレ系キャラとしてバラエティ番組に出演させられることが多くなり、番組内でギョウ虫検査を受けさせられた事もある なかでも日本テレビの大晦日特番『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』内では「蛭子能収の汗を基に作られた塩大福を出演者が知らずに食べる」という過激なネタが放映され、全国の視聴者に強烈なトラウマを植え付ける事となった(ちなみに塩大福を食べたのは月亭方正と遠藤章造) しかし本人は依頼された仕事は生命に関わる仕事以外は絶対に断らない主義である これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという また、いつも笑っているのは「子供の頃から自然に身についたもの」としており「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか 言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね」と理由を述べている。
漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いは、そのくまのプーさんの着ぐるみがずぶ濡れになった様な風体と独特のキャラクターがコメディー番組などで大いに受けるところとなった」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした だって、それではウソになってしまうから それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためには自分を偽らない事しか手段がなかったんです」と述べている。
会社員時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ 心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。

糸井重里と湯村輝彦が共作した不条理漫画『ペンギンごはん』シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年7月号掲載の「愛の嵐」を最後に沈黙 以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載「地獄のサラリーマン」まで5年間途絶えることになる。次第に蛭子は職業漫画家に限界を感じるようになり、郷里の長崎に帰る決意を固める。

また高杉と山崎の第一印象についても「ヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私が今まで付き合っているサラリーマン風な若者とはまるで違っていて、私は何やら胡散臭いなと思った」と回想するなど、決して好印象を与えるものではなかったというが、蛭子はこの二人の編集者に対して「オレの漫画に初めてお金を払ってくれた人生の恩人」「『ガロ』に作品が掲載されたものの、まったくの無名だったオレをプロの漫画家にしてくれた」と感謝しており、のちに蛭子は「そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ 隔月でキチンと締め切りもあったし それでこの二人を信用するようになったんです その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです だから『Jam』の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです」「私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである そして不当に扱われている自動販売機の本がいとおしくなった」 と述懐している。

独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる 作品は狂気と悪意に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている 登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く、いずれも尋常でない汗をかいている 背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOやドクロが置かれ、ストーリーの内容も「因果で陰鬱なプロット」「意味のない掛け合い」「オチのない結末」などが多く、救いのないオチがほとんどで、もはや言語解説不可能な域に達している 特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と述べており、内面からの狂気を描いたブラックな作品が多い 呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評している また早くから「ヘタウマ」というジャンルを確立した一人でもある。

後輩漫画家の山田花子は蛭子を「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価しており、漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している 蛭子漫画の恐ろしさはここにある 人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする 蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す 彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」と述べている これについて蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね 描いたりするのがね 弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている。

1973年のデビューから「自由な創作」が行える漫画雑誌『ガロ』に投稿を続けていたが、青林堂の経営難により原稿料が支払われることは一度も無かった これについて蛭子本人は「あの出版社からは『ガロ』でデビューした時から35年間一度も原稿料もらっていません でも、いいんです オレはアングラの世界が好きだし、掲載してもらえるだけで嬉しいんです」と語っている 『ガロ』の後継誌にあたる隔月発行の漫画雑誌『アックス』の連載でも青林工藝舎の経済的事情から「原稿料ゼロ」の状態が現在もなお続いている。
サラリーマンを辞めて漫画家になろうとした1981年頃、『ガロ』の名物編集長で知られる長井勝一と水道橋の路上を歩いていると、長井は蛭子に「青林堂はなかなか経営が良くならないけど、僕は蛭子さんで儲けさせてもらおうと思ってるんだよ」と真剣な顔で述べたことがあるという その時、蛭子は「果たして冗談で言ってるのだろうか、そもそも私の漫画ってそんなに売れるのだろうか?」と思い「社長、それは無理ですよ」と照れながらも真剣に言葉を返してしまったという 長井はそれから15年後の1996年に他界したが、蛭子は『ガロ』に寄稿した追悼文の中で「私は漫画では売れなかったけどテレビに出て自分のキャラクターで十分すぎる程食えるようになってしまった 実は長井さんは私に言ったのは別に漫画に限って言ってるわけではなかったのではないかと思っているのですよ」と回想している。
テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
仕事観について「サラリーマンの仕事なんてみっともないことばかり、心の貧しい生活を強いられているのがサラリーマン」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる プライドはあんまり持たないこと」「夢を追いかけ続けるのはいいけど、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメ、衣食足りてこその夢の追求なのだから漫画だけで食えない作家は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら立派なことをしようと力まない方がいい」「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い 仕事で輝くという人生は変、人は競艇場で輝くために働くんです」という持論を持っており、テレビの仕事で心がけていることについては「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと 仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです」と述べている なお蛭子はクラスの同窓会で同級生にテレビの熱湯風呂の仕事を「みっともないことばかりしている」と言われたことがあるが、それに対して「あれ一回でサラリーマンの月収分稼いでいる」と心の中で言い返したことがあるという。
テレビ出演当初から「温厚で気が弱そうな人畜無害おじさん」として、出演者や司会者になじられても常にニコニコ笑っている印象で知られる そのため、いじられキャラやヨゴレ系キャラとしてバラエティ番組に出演させられることが多くなり、番組内でギョウ虫検査を受けさせられた事もある なかでも日本テレビの大晦日特番『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』内では「蛭子能収の汗を基に作られた塩大福を出演者が知らずに食べる」という過激なネタが放映され、全国の視聴者に強烈なトラウマを植え付ける事となった(ちなみに塩大福を食べたのは月亭方正と遠藤章造) しかし本人は依頼された仕事は生命に関わる仕事以外は絶対に断らない主義である これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという また、いつも笑っているのは「子供の頃から自然に身についたもの」としており「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか 言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね」と理由を述べている。
漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いは、そのくまのプーさんの着ぐるみがずぶ濡れになった様な風体と独特のキャラクターがコメディー番組などで大いに受けるところとなった」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした だって、それではウソになってしまうから それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためには自分を偽らない事しか手段がなかったんです」と述べている。
会社員時代の自身については、「どんな時でも目立たずに、自己主張なんてことは一切せず、何もかも上司の言いなりに動く会社員でしたね まぁオレの性格が意見とかそういうのが言えないから、めんどくさい業務とか残業なんかも頼まれると断りたいけど断れないんですよ 心の貧しい生活を強いられている、それがサラリーマンだと思っていたんですよね」と回想している。

糸井重里と湯村輝彦が共作した不条理漫画『ペンギンごはん』シリーズに刺激を受けるが、漫画では収入を一銭も得る事ができず、デビューから2年程で寡作になり、1976年7月号掲載の「愛の嵐」を最後に沈黙 以降『ガロ』での執筆は1981年6月号掲載「地獄のサラリーマン」まで5年間途絶えることになる。次第に蛭子は職業漫画家に限界を感じるようになり、郷里の長崎に帰る決意を固める。

また高杉と山崎の第一印象についても「ヒッピーらしき風貌の人と、目の釣り上がったインテリらしき若い二人連れで、私が今まで付き合っているサラリーマン風な若者とはまるで違っていて、私は何やら胡散臭いなと思った」と回想するなど、決して好印象を与えるものではなかったというが、蛭子はこの二人の編集者に対して「オレの漫画に初めてお金を払ってくれた人生の恩人」「『ガロ』に作品が掲載されたものの、まったくの無名だったオレをプロの漫画家にしてくれた」と感謝しており、のちに蛭子は「そこで初めて原稿料らしい原稿料をもらったんですよ 隔月でキチンと締め切りもあったし それでこの二人を信用するようになったんです その二人に『会社を辞める』ということを話したら、『それなら他の編集者も紹介しますよ』と言ってくれて、出会いが広がっていって、定期的に漫画の収入が入るようになったんです だから『Jam』の編集さんに会っていなかったら、漫画家になってなかったかもしれないんで、すごく感謝しているんです」「私は、この高杉弾と山崎春美という二人のおかげで、ついに夢であった漫画の仕事へ就くことができたのである そして不当に扱われている自動販売機の本がいとおしくなった」 と述懐している。

独特の絵柄と他の追随を許さないエキセントリックな世界感を持っており、漫画の特徴を一言でいうと「暴力と狂気にまみれたシュールでグロテスクなナンセンス不条理ギャグ漫画」というようなものになる 作品は狂気と悪意に満ちており、日常の不満や歪んだ欲望に不気味な絵柄が相まって謎の緊張感が常に漂っている 登場人物は平凡なサラリーマンである事が多く、いずれも尋常でない汗をかいている 背景の舞台装置には何故かストーリーに関係なくUFOやドクロが置かれ、ストーリーの内容も「因果で陰鬱なプロット」「意味のない掛け合い」「オチのない結末」などが多く、救いのないオチがほとんどで、もはや言語解説不可能な域に達している 特殊漫画家の根本敬は漫画家としての蛭子能収を「狂気を内側から描いている人」と述べており、内面からの狂気を描いたブラックな作品が多い 呉智英は蛭子漫画について「被害者意識と憎悪とが混じりあった悪夢のような作風は、余人の追随を許さない」と評している また早くから「ヘタウマ」というジャンルを確立した一人でもある。

後輩漫画家の山田花子は蛭子を「感じたまま、ありのままの自分をさらけ出して描いている本物の作家」と評価しており、漫画評論家の清水生も「蛭子は漫画において人間の本性を妥協なく露出している 蛭子漫画の恐ろしさはここにある 人間は家族でも夫婦でも恋人同士ですら憎んだり嫉妬したり裏切ったりする 蛭子は人間のあるがままの姿を直視し、それを彼流の手法でデフォルメして描き出す 彼の漫画に虚勢や見栄や気取りは通用しない」と述べている これについて蛭子は「僕は文句を言ったりする勇敢な人より、つい何も言えずに我慢しながら生きている人が好きなんですよ だからサラリーマンでも、一流会社で悠々とやってる人じゃなくて、低賃金のところでヒーヒーしている人をね 描いたりするのがね 弱い人間っていうのは、やっぱ魅力ありますよね」と語っている。

1973年のデビューから「自由な創作」が行える漫画雑誌『ガロ』に投稿を続けていたが、青林堂の経営難により原稿料が支払われることは一度も無かった これについて蛭子本人は「あの出版社からは『ガロ』でデビューした時から35年間一度も原稿料もらっていません でも、いいんです オレはアングラの世界が好きだし、掲載してもらえるだけで嬉しいんです」と語っている 『ガロ』の後継誌にあたる隔月発行の漫画雑誌『アックス』の連載でも青林工藝舎の経済的事情から「原稿料ゼロ」の状態が現在もなお続いている。
サラリーマンを辞めて漫画家になろうとした1981年頃、『ガロ』の名物編集長で知られる長井勝一と水道橋の路上を歩いていると、長井は蛭子に「青林堂はなかなか経営が良くならないけど、僕は蛭子さんで儲けさせてもらおうと思ってるんだよ」と真剣な顔で述べたことがあるという その時、蛭子は「果たして冗談で言ってるのだろうか、そもそも私の漫画ってそんなに売れるのだろうか?」と思い「社長、それは無理ですよ」と照れながらも真剣に言葉を返してしまったという 長井はそれから15年後の1996年に他界したが、蛭子は『ガロ』に寄稿した追悼文の中で「私は漫画では売れなかったけどテレビに出て自分のキャラクターで十分すぎる程食えるようになってしまった 実は長井さんは私に言ったのは別に漫画に限って言ってるわけではなかったのではないかと思っているのですよ」と回想している。
テレビ番組の「ぶらり旅」が実は苦手で、細かく計画を立て時間通りに旅行するタイプである。
仕事観について「サラリーマンの仕事なんてみっともないことばかり、心の貧しい生活を強いられているのがサラリーマン」「仕事はつらいことをする代わりにお金をもらうもの、お金を貰えるなら何でも我慢できる、どんな悩みも困ったこともすべてお金が解決してくれる」「仕事をしている間は雇い主に自分の考えも時間も拘束されていると割り切っているので嫌なことがあっても我慢できる プライドはあんまり持たないこと」「夢を追いかけ続けるのはいいけど、生活するためのお金はどこか別で稼がなくちゃダメ、衣食足りてこその夢の追求なのだから漫画だけで食えない作家は趣味に徹するべき」「上に立つ立場になっても実力がないのなら立派なことをしようと力まない方がいい」「仕事でやりがいや生きがいを見つけようとするのが間違い 仕事で輝くという人生は変、人は競艇場で輝くために働くんです」という持論を持っており、テレビの仕事で心がけていることについては「ディレクターの指示どおり動き、自分の意見は余り主張しないこと 仕事はお金をもらっている以上、諦めて何でもハイハイ言ってたらいいんです」と述べている なお蛭子はクラスの同窓会で同級生にテレビの熱湯風呂の仕事を「みっともないことばかりしている」と言われたことがあるが、それに対して「あれ一回でサラリーマンの月収分稼いでいる」と心の中で言い返したことがあるという。
テレビ出演当初から「温厚で気が弱そうな人畜無害おじさん」として、出演者や司会者になじられても常にニコニコ笑っている印象で知られる そのため、いじられキャラやヨゴレ系キャラとしてバラエティ番組に出演させられることが多くなり、番組内でギョウ虫検査を受けさせられた事もある なかでも日本テレビの大晦日特番『絶対に笑ってはいけない地球防衛軍24時』内では「蛭子能収の汗を基に作られた塩大福を出演者が知らずに食べる」という過激なネタが放映され、全国の視聴者に強烈なトラウマを植え付ける事となった(ちなみに塩大福を食べたのは月亭方正と遠藤章造) しかし本人は依頼された仕事は生命に関わる仕事以外は絶対に断らない主義である これはサラリーマン時代から仕事でつらい事があっても金を貰う対価として割り切れる姿勢から来ているという また、いつも笑っているのは「子供の頃から自然に身についたもの」としており「理由もなくニコニコ笑っていれば、相手が正直な気持ちを言いやすいようになるじゃないですか 言うまでもなく、ムッとしているよりは言いやすいですよね」と理由を述べている。
漫画家仲間の根本敬は蛭子のキャラクターを「知的装飾の欠如した言動に特徴があり、物事の本質しか突かぬ蛭子の言葉と特徴的な振る舞いは、そのくまのプーさんの着ぐるみがずぶ濡れになった様な風体と独特のキャラクターがコメディー番組などで大いに受けるところとなった」と分析しており、その世間一般の常識にとらわれない、モラルに頓着しない振る舞いゆえ、共演者や視聴者の顰蹙を買うことが多いが、本人は「“視聴者受けするようなことを言わなくては”とは絶対に思いませんでした だって、それではウソになってしまうから それで共演者や視聴者から顰蹙を買うようなことがあっても、自分自身でいるためには自分を偽らない事しか手段がなかったんです」と述べている。
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