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林家三平_(初代) 落語家

はやしや さんぺい
林家三平_(初代)
初代 林家 三平(しょだい はやしや さんぺい、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。本名は海老名 泰一郎(えびな やすいちろう)。旧名は海老名 栄三郎(えびな えいざぶろう)。落語協会理事。東京市下谷区(現東京都台東区)根岸出身。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。



初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家
落語協会理事。
東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。
通称は根岸。
出囃子は『祭囃子』。
1946年(昭和21年)2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。
父の前座名「柳家三平」を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。
落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。
現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。
同年4月、父親の独演会で初高座。
翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。
同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。
2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。
前座名「たま平」。
これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。
落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。
そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。
そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。
その一方で長男の泰孝(後の九代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している。
泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の二代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である。
その他にも、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった。
その泰孝も、自身の長男・泰良に「たま平」という名前を付けているが、由来は泰良が中学、高校とラグビー部だったという安易な理由であった。
その他にも本名が武史だから「たけ平」や大阪出身だから「たこ蔵」など泰孝の弟子の名付け方は三平を踏襲したものが多い。
この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家として粋を大変に重んじる人物であった。
服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。
洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。
この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。
「三平さんまで兵隊行ったんですから、いかに当時の軍部が追いつめられていたかってことですよ」(落語家は徴兵で)「十五、六人ぐらい行ってんですよ で、一人も死なないで全部帰って来ちゃった。
非国民ですねー 三平さんなんか、太って帰って来た。
何してたんでしょう、あの人は」(川柳川柳『ガーコン』)。
妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。
以降は流転の末に落語家(三代目金馬)の家で育てられた。
長男・泰孝(九代目正蔵)の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという 古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと このことに関して九代目正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。
これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持っていたが故、そして自身の跡継ぎとなる長男が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を九代目正蔵に行っていたとされる。
ただ、その九代目正蔵もゲンコツ等はしないものの、自身の跡継ぎとなる長男・泰良(たま平)に対して、三平同様非常に厳しい指導を行っている。
興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。
興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。
三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。
落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。
だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。
三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。
その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。
そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝がこぶ平を経て九代目正蔵、泰助がいっ平を経て二代目三平の名跡を襲名するまでに至った。
そして、九代目正蔵の2人の息子達も「林家たま平」(長男:泰良、二ツ目)と「林家ぽん平」(次男:泰宏、前座)の新たな「海老名兄弟」として、それぞれ曽祖父から続く四世落語家の道を歩んでいる。
一方で一門の惣領弟子として守り続けてきたこん平は、上述のストレスや過度の飲酒から2004年8月に多発性硬化症を発症し入院。
初回から出演していた『笑点』降板を余儀なくされた(後任は弟子の林家たい平が就任) こん平はその後リハビリを行い回復はしたものの、高座復帰が出来る体調までは戻らず、落語家としては事実上のリタイア状態となり2020年12月に死去した。
こん平が倒れた後に実施された前述した海老名兄弟の正蔵・三平襲名の後見は八代目正蔵の弟子でこん平とは『笑点』で共演していた林家木久扇が行っている。
落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている。
三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。
つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。
2023/5/30(火)
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1946年(昭和21年)2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名「柳家三平」を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。

2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

その一方で長男の泰孝(後の九代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している 泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の二代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である その他にも、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった その泰孝も、自身の長男・泰良に「たま平」という名前を付けているが、由来は泰良が中学、高校とラグビー部だったという安易な理由であった その他にも本名が武史だから「たけ平」や大阪出身だから「たこ蔵」など泰孝の弟子の名付け方は三平を踏襲したものが多い。

この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家として粋を大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

「三平さんまで兵隊行ったんですから、いかに当時の軍部が追いつめられていたかってことですよ」(落語家は徴兵で)「十五、六人ぐらい行ってんですよ で、一人も死なないで全部帰って来ちゃった 非国民ですねー 三平さんなんか、太って帰って来た 何してたんでしょう、あの人は」(川柳川柳『ガーコン』)。

妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。以降は流転の末に落語家(三代目金馬)の家で育てられた。

長男・泰孝(九代目正蔵)の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという 古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと このことに関して九代目正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持っていたが故、そして自身の跡継ぎとなる長男が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を九代目正蔵に行っていたとされる。ただ、その九代目正蔵もゲンコツ等はしないものの、自身の跡継ぎとなる長男・泰良(たま平)に対して、三平同様非常に厳しい指導を行っている。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。

その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝がこぶ平を経て九代目正蔵、泰助がいっ平を経て二代目三平の名跡を襲名するまでに至った。そして、九代目正蔵の2人の息子達も「林家たま平」(長男:泰良、二ツ目)と「林家ぽん平」(次男:泰宏、前座)の新たな「海老名兄弟」として、それぞれ曽祖父から続く四世落語家の道を歩んでいる。一方で一門の惣領弟子として守り続けてきたこん平は、上述のストレスや過度の飲酒から2004年8月に多発性硬化症を発症し入院。初回から出演していた『笑点』降板を余儀なくされた(後任は弟子の林家たい平が就任) こん平はその後リハビリを行い回復はしたものの、高座復帰が出来る体調までは戻らず、落語家としては事実上のリタイア状態となり2020年12月に死去した こん平が倒れた後に実施された前述した海老名兄弟の正蔵・三平襲名の後見は八代目正蔵の弟子でこん平とは『笑点』で共演していた林家木久扇が行っている。

落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている 三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1946年(昭和21年)2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名「柳家三平」を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。

2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

その一方で長男の泰孝(後の九代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している 泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の二代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である その他にも、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった その泰孝も、自身の長男・泰良に「たま平」という名前を付けているが、由来は泰良が中学、高校とラグビー部だったという安易な理由であった その他にも本名が武史だから「たけ平」や大阪出身だから「たこ蔵」など泰孝の弟子の名付け方は三平を踏襲したものが多い。

この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家として粋を大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

「三平さんまで兵隊行ったんですから、いかに当時の軍部が追いつめられていたかってことですよ」(落語家は徴兵で)「十五、六人ぐらい行ってんですよ で、一人も死なないで全部帰って来ちゃった 非国民ですねー 三平さんなんか、太って帰って来た 何してたんでしょう、あの人は」(川柳川柳『ガーコン』)。

妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。以降は流転の末に落語家(三代目金馬)の家で育てられた。

長男・泰孝(九代目正蔵)の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという 古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと このことに関して九代目正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持っていたが故、そして自身の跡継ぎとなる長男が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を九代目正蔵に行っていたとされる。ただ、その九代目正蔵もゲンコツ等はしないものの、自身の跡継ぎとなる長男・泰良(たま平)に対して、三平同様非常に厳しい指導を行っている。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。

その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝がこぶ平を経て九代目正蔵、泰助がいっ平を経て二代目三平の名跡を襲名するまでに至った。そして、九代目正蔵の2人の息子達も「林家たま平」(長男:泰良、二ツ目)と「林家ぽん平」(次男:泰宏、前座)の新たな「海老名兄弟」として、それぞれ曽祖父から続く四世落語家の道を歩んでいる。一方で一門の惣領弟子として守り続けてきたこん平は、上述のストレスや過度の飲酒から2004年8月に多発性硬化症を発症し入院。初回から出演していた『笑点』降板を余儀なくされた(後任は弟子の林家たい平が就任) こん平はその後リハビリを行い回復はしたものの、高座復帰が出来る体調までは戻らず、落語家としては事実上のリタイア状態となり2020年12月に死去した こん平が倒れた後に実施された前述した海老名兄弟の正蔵・三平襲名の後見は八代目正蔵の弟子でこん平とは『笑点』で共演していた林家木久扇が行っている。

落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている 三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1946年(昭和21年)2月、東宝専属である父正蔵に入門し東宝名人会の前座となる。父の前座名「柳家三平」を貰い、芸名を林家三平と名づけられる。落語家は真打になった時などの区切りの場面で改名することが通例だが、この名を生涯名乗り続けることになる(このため、前座名のまま亡くなるまで通した落語家の代表例として三平が取り上げられることもある)。現在の公式プロフィールでは、林家甘蔵は名乗らなかったことになっている。同年4月、父親の独演会で初高座。翌1947年秋、東宝名人会において二つ目に昇進。

同じ時期にテレビ、ラジオで活躍した落語家に、弟弟子五代目月の家圓鏡(後の八代目橘家圓蔵)、七代目立川談志、五代目三遊亭圓楽、二代目三遊亭歌奴(後の三代目三遊亭圓歌)らがいる。

2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

その一方で長男の泰孝(後の九代目正蔵)は、「親父は、弟子の名前を付けるのが下手だった」と回顧している 泰孝が三平に入門した時に付けられた「こぶ平」という名前は、弟の泰助(後の二代目三平)が「兄ちゃんは小太りだから、こぶ平という名前がいいんじゃないか」と言ったことから付けられた名前である その他にも、種子島出身だから林家種平、北海道出身だから林家とんでん平という調子で、安易な名前を付けられた弟子も多い もっとも、安易な名前だが落語家の定型的な名前からは逸脱しており、インパクトはあって覚えられやすい、また三平の弟子だと判りやすいという一面もあり、弟子たちにとって決してマイナスになるものではなかった その泰孝も、自身の長男・泰良に「たま平」という名前を付けているが、由来は泰良が中学、高校とラグビー部だったという安易な理由であった その他にも本名が武史だから「たけ平」や大阪出身だから「たこ蔵」など泰孝の弟子の名付け方は三平を踏襲したものが多い。

この様なエピソードばかりが目立ってしまうきらいはあるが、江戸落語の噺家として粋を大変に重んじる人物であった。服装は常に折り目正しく、高座には必ず黒紋付き袴で上がり、他の多くの噺家のように色つきの着流しで簡単に済ませるようなことはしなかった。洋装をまとうにしても高価なタキシードやスーツをきっちりと着こなしており、いい加減な服装・普段着で客の前やテレビに登場することはなかった。この点についていえば、テレビ本格普及以降に台頭した落語家のみならず芸能界で活躍したタレント・芸人を見渡しても希有な存在である。

「三平さんまで兵隊行ったんですから、いかに当時の軍部が追いつめられていたかってことですよ」(落語家は徴兵で)「十五、六人ぐらい行ってんですよ で、一人も死なないで全部帰って来ちゃった 非国民ですねー 三平さんなんか、太って帰って来た 何してたんでしょう、あの人は」(川柳川柳『ガーコン』)。

妻・香葉子は、著書・講演・評伝などで再三強調されている通り、1945年の東京大空襲で一家のほぼ全員を失っている(香葉子の三兄にあたる中根喜三郎はただ一人空襲を生き延びている)。以降は流転の末に落語家(三代目金馬)の家で育てられた。

長男・泰孝(九代目正蔵)の回想によると、子どもの頃の父・三平に対するイメージは、「典型的な優しいお父さん」という印象だったそうだが、落語家として弟子入りした直後からそれまでの態度が嘘のように厳しい態度をとるようになったという 古典の稽古で噺を上手くできない度にゲンコツを喰らっていたなど、下積み修行時代には容赦なく殴られることも少なくなかったとのこと このことに関して九代目正蔵は、「父は、僕を一人前の噺家にするために人並み以上の責任感と言うものを背負っていたのだろう だからあのときの拳骨の一発一発が僕に対する愛情だった」と語っている。これは、三平自身が大正生まれで、まだ前近代的な価値観を持っていたが故、そして自身の跡継ぎとなる長男が、一門の誇りと信頼を汚さぬよう立派な落語家に育て上げるという責任感の強さから、このような非常に厳しい指導を九代目正蔵に行っていたとされる。ただ、その九代目正蔵もゲンコツ等はしないものの、自身の跡継ぎとなる長男・泰良(たま平)に対して、三平同様非常に厳しい指導を行っている。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

落語の世界においては、師匠の死去を区切りとして一門が解散するのが通例となっている。だが、三平の門下たちは、林家こん平を中心人物として三平の死後も長らく「三平一門」として事実上の一派を成してきた。三平は落語家以外にも林家ペー・林家パー子や林家ライス・カレー子といった漫談家・漫才師も育てているが、何れも三平門下として三平の芸の系譜を受け継いでいることを大切にしており、この一門の結束の固さは落語界でも特筆すべき存在である。

その様な過酷な状況を一門は一丸となって乗り越えながら、三平の弟子・孫弟子から数多くの真打を誕生させた。そして、一門に名を連ねた三平の息子2人も落語家として育て上げ、ほぼ四半世紀を費やしながらついには泰孝がこぶ平を経て九代目正蔵、泰助がいっ平を経て二代目三平の名跡を襲名するまでに至った。そして、九代目正蔵の2人の息子達も「林家たま平」(長男:泰良、二ツ目)と「林家ぽん平」(次男:泰宏、前座)の新たな「海老名兄弟」として、それぞれ曽祖父から続く四世落語家の道を歩んでいる。一方で一門の惣領弟子として守り続けてきたこん平は、上述のストレスや過度の飲酒から2004年8月に多発性硬化症を発症し入院。初回から出演していた『笑点』降板を余儀なくされた(後任は弟子の林家たい平が就任) こん平はその後リハビリを行い回復はしたものの、高座復帰が出来る体調までは戻らず、落語家としては事実上のリタイア状態となり2020年12月に死去した こん平が倒れた後に実施された前述した海老名兄弟の正蔵・三平襲名の後見は八代目正蔵の弟子でこん平とは『笑点』で共演していた林家木久扇が行っている。

落語家は高座で「つかみ込み」をやるのは絶対的禁忌とされている 三平は他のジャンル(歌謡界(西城秀樹……)などから「つかみ込む」ことはあっても他の落語家のギャグをパクることはなかった。つかみ込みを禁ずる理由は同業者からの剽窃を防止することにあるので、三平は最低限のルールを守っていたのである。
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