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林家三平_(初代) 落語協会

はやしや さんぺい
林家三平_(初代)
初代 林家 三平(しょだい はやしや さんぺい、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。本名は海老名 泰一郎(えびな やすいちろう)。旧名は海老名 栄三郎(えびな えいざぶろう)。落語協会理事。東京市下谷区(現東京都台東区)根岸出身。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。



初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。
落語協会理事。
東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。
通称は根岸。
出囃子は『祭囃子』。
1949年(昭和24年)10月26日、父正蔵死去。
落語芸術協会に移籍先がなく、同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移る。
落語芸術協会における二つ目の資格は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。
1951年(昭和26年)3月、二つ目昇進。
1968年(昭和43年)、落語協会(六代目三遊亭圓生会長)理事就任。
1978年(昭和53年)5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。
だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。
またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りし、「こぶ平」を名乗る。
2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。
前座名「たま平」。
これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
2017年、たま平が二つ目昇進。
親子4代での二つ目昇進は史上初。
父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。
当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。
やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。
抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。
七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。
ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。
東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。
しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。
つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。
この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった。
これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。
三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。
真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。
五代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。
小三治は柳派の出世名である。
これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。
そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。
だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。
しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。
そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかったので、落語協会で前座をやり直すことになった。
従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。
落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。
そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。
そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。
1978年、六代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。
当代一番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。
だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。
三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。
三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。
圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。
なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。
興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。
興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。
三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。
これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。
三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。
また七代目圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。
そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。
そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。
既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
2023/5/30(火)
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1949年(昭和24年)10月26日、父正蔵死去。落語芸術協会に移籍先がなく、同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移る。落語芸術協会における二つ目の資格は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。1951年(昭和26年)3月、二つ目昇進。

1968年(昭和43年)、落語協会(六代目三遊亭圓生会長)理事就任。

1978年(昭和53年)5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りし、「こぶ平」を名乗る。

2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
2017年、たま平が二つ目昇進。親子4代での二つ目昇進は史上初。
父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。

七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである 東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。

三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。

だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかったので、落語協会で前座をやり直すことになった。

従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

1978年、六代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代一番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。

だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。また七代目圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1949年(昭和24年)10月26日、父正蔵死去。落語芸術協会に移籍先がなく、同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移る。落語芸術協会における二つ目の資格は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。1951年(昭和26年)3月、二つ目昇進。

1968年(昭和43年)、落語協会(六代目三遊亭圓生会長)理事就任。

1978年(昭和53年)5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りし、「こぶ平」を名乗る。

2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
2017年、たま平が二つ目昇進。親子4代での二つ目昇進は史上初。
父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。

七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである 東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。

三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。

だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかったので、落語協会で前座をやり直すことになった。

従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

1978年、六代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代一番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。

だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。また七代目圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
初代 林家 三平(はやしや さんぺい、1925年〈大正14年〉11月30日 - 1980年〈昭和55年〉9月20日)は、落語家。落語協会理事。東京市下谷区(現:東京都台東区)根岸出身。通称は根岸。出囃子は『祭囃子』。

1949年(昭和24年)10月26日、父正蔵死去。落語芸術協会に移籍先がなく、同年、かつて父の弟子だった四代目月の家圓鏡(後の七代目橘家圓蔵)門下に移る。落語芸術協会における二つ目の資格は取り消され、新師匠圓蔵が所属する落語協会で改めて前座からやり直す。1951年(昭和26年)3月、二つ目昇進。

1968年(昭和43年)、落語協会(六代目三遊亭圓生会長)理事就任。

1978年(昭和53年)5月、落語協会分裂騒動が起き、師匠の圓蔵が新団体参加を表明する。だが、三平自身は新団体への移籍の意志を見せず、圓蔵の落語協会脱会撤回の説得に成功する。またこの年、長男・泰孝が三平に弟子入りし、「こぶ平」を名乗る。

2013年、泰良が正蔵の元に弟子入り。前座名「たま平」。これにより海老名家は四代続く落語家一家となった。
2014年、正蔵が落語協会副会長に就任(2023年3月時点で現職)。
2017年、たま平が二つ目昇進。親子4代での二つ目昇進は史上初。
父正蔵の前名は七代目柳家小三治である。当時人気のあった初代柳家三語楼の一門であった。やがて落語協会内部で派閥抗争が起こり、初代三語楼一門は全員落語協会を脱退し、新たに初代三語楼を会長とする「落語協会」(いわゆる「三語楼協会」)という、つまり全く同名の組織を別に結成するという挙に出た。抗争は、互いに独立した二つの協会間の争いに変質したのである。

七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである 東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。

三平は二つ目の時点で既に時代の寵児、そして落語協会の次代を支える若手の筆頭となっていた。真打への昇進ともなれば、落語協会としてもやはり前座名でない立派な名を与える必要があった。五代目小さんは、自らの前名「柳家小三治」を三平に譲る事を考えた。小三治は柳派の出世名である。これをもって彼を柳派の正式な一員とし、ホープとして育てる事を約束するようなものである。そして都合のいいことに、三平本人の父の前名でもある。

だがその実、圓蔵は師匠正蔵にかなり冷遇された身であった。しかも最後は破門されており、正蔵に対し恨みを強く残していたのである。そのためか、東宝名人会における三平の前座経験と二つ目昇進を圓蔵は全く考慮しなかったので、落語協会で前座をやり直すことになった。

従ってこの時点では最悪の選択をしたように見えるが、最終的な結果として特段悪い道ともいえなかった。落語協会での修行を積むことで、落語家として正統な出世コースを歩むことができた。そしてTBSの出口一雄は大師匠文楽に心酔しており、その孫弟子である三平に喜んでチャンスを与えた。そのため同局のレギュラー番組(今日の演芸)を射止めることができたのだ。

1978年、六代目三遊亭圓生が主導して引き起こした落語協会分裂騒動の際には、師匠圓蔵は三平・圓鏡も含む一門を挙げて新団体に参加する予定で、新団体旗揚げの場には圓蔵が三平を連れて来る手はずであったと言われている。当代一番人気の噺家であり落語界きってのテレビスターでもある三平を新団体へと参加させることができれば、彼こそが新団体にとって最大の切り札となるはずであった。

だが、赤坂プリンスホテルで行われた新団体の旗揚げの記者会見に現れたのは圓蔵・圓鏡だけで、三平はついに姿を現さず、新団体の参加者たちを動揺させることとなる。三平は、圓生が裏で三平とその門下たちを徹底的に敵視・軽視し、冷遇していた実態を十分に把握しており、その圓生が中心人物となる新団体に移籍したところで、自身とその一門にとっては百害あって一利なしと考え、自身の中では当初から「落語協会残留」に方針を定め、それは一貫して揺らぐことはなかった。

三遊亭圓丈の著書『御乱心 落語協会分裂と、円生とその弟子たち』などで語られるところでは、この時、三平は弟子を集めて「私は新協会に誘われているがみんなはどう思うか」と聞いたところ、総領弟子こん平が三平の足にしがみ付き「師匠の行く所ならどこまでもご一緒します」と泣いたという。圓丈によれば、クサイ芝居で嫌われたこん平でもあれは酷かったともっぱらの評判であったというが、三平とその門下の結束の強さを示すエピソードでもある。なお、この本の著者である圓丈がいた圓生一門はこの一件が尾を引き、最後は圓生の急死で事実上の空中分解に近い形で消滅しており、文中の端々からはこの一件で揺らぐことのなかった三平一門の結束の固さに対する羨望も窺える。

興津要の『落語家』(旺文社文庫)によれば、そればかりでなく師匠圓蔵に落語協会脱退を撤回させたのも、三平の説得によるものであったという。興津はそれは相当に粘り強い努力であったろうと推測している。三平の不参加、そして三平が圓蔵を「脱落」させたこと、さらに圓蔵の「脱落」によって圓鏡もまた協会脱退を撤回したことは、圓生を中心とする新協会(落語三遊協会)にとっては相当の痛手になったと言われている。

これらの背景には上述の落語協会分裂騒動がある。三平が逝去した1980年秋当時の落語協会にはこの騒動の後遺症がまだ色濃く残っており、以降、騒動の経緯から三平とその一門と、三平の師匠(こん平たちから見れば大師匠)である7代圓蔵の一門などの間にはある種のわだかまりが残っていた。また七代目圓蔵も三平に先立つ1980年5月に死去しており、その一門は事実上の解散となっていた。そこに来て三平が50代半ばで死去したから、修行中の三平の弟子たちは同系の師匠を頼るに頼れず行き場を失った事実上の「落語界の孤児」とでも言うべき状態となり、結果として総領弟子で当時三平一門生え抜きでの唯一の真打でもあった林家こん平が一門をそのまま継ぎ、弟弟子たちはそのままこん平の弟子になった。そして、その背後には海老名家(未亡人の海老名香葉子)と義兄の中根喜三郎が依然としてバックに付き、事実上のオーナー的存在となった。既に真打となって8年を経た身であったとはいえ、この様な形で三平に代わり年若くして一門を率いて否応なく独立独歩の道を歩む事になったこん平が、分裂騒動でギクシャクした落語協会の人間関係の中で如何に辛酸をなめさせられたかは、香葉子の著書『おかみさん』に描かれているとおりである。
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