林家三平_(初代)
と 林家正蔵
はやしや さんぺい 林家三平_(初代) |
初代 林家 三平(しょだい はやしや さんぺい、1925年11月30日 - 1980年9月20日)は、落語家。本名は海老名 泰一郎(えびな やすいちろう)。旧名は海老名 栄三郎(えびな えいざぶろう)。落語協会理事。東京市下谷区(現東京都台東区)根岸出身。通称は「根岸」。出囃子は『祭囃子』。 |
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1925年(大正14年)11月30日、七代目柳家小三治(後の七代目林家正蔵)と母・歌(うた)の長男として東京根岸に生まれる。
海老名榮三郎(えびな えいざぶろう)と名づけられる。
旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。
1961年(昭和36年)1月17日、第二子・泰葉生まれる。
翌1962年(昭和37年)12月1日、第三子・泰孝(後に林家こぶ平→九代目林家正蔵)生まれる。
待望の後継ぎ誕生であった。
2005年3月、こぶ平が「九代目林家正蔵」襲名。
2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。
ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。
東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。
しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。
つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。
この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった。
これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。
一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様五代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、八代目林家正蔵を襲名した。
父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。
名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。
一方、八代目正蔵側から見れば、七代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「七代目林家正蔵」参照)。
七代目橘家圓蔵は、師匠八代目桂文楽に破門された後、七代目林家正蔵一門に弟子入りして2年間を過ごし、その後社会の最底辺で職業を転々とする文字通りの「てんてん人生」に甘んじた。
圓蔵は、生涯を通じて落語が下手で、後世の評価でも三平の下手を遥かに上回るといわれている。
海老名榮三郎(えびな えいざぶろう)と名づけられる。
旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学。
1961年(昭和36年)1月17日、第二子・泰葉生まれる。
翌1962年(昭和37年)12月1日、第三子・泰孝(後に林家こぶ平→九代目林家正蔵)生まれる。
待望の後継ぎ誕生であった。
2005年3月、こぶ平が「九代目林家正蔵」襲名。
2009年3月、いっ平が「二代目林家三平」襲名。
七代目柳家小三治(七代目林家正蔵)も師匠に従い三語楼協会に加わった。
ところが、「柳家小三治」という名は柳派にとって重要な出世名で、柳派の総帥四代目柳家小さんは従来の協会(区別のため「東京落語協会」と呼ばれる)に残留したままである。
東京落語協会は、三語楼協会に「小三治の名を返せ」と迫った。
しかし三語楼協会が従うはずもなく、逆に東京落語協会は同じ柳派の柳家小ゑん(高橋栄次郎)に柳家小三治を襲名させてしまった。
つまり、同時に2人の「柳家小三治」が発生したのである。
この異常事態に対し、別団体睦会の五代目柳亭左楽の差配で、三語楼協会の小三治に柳家とは全く関係ない名「林家正蔵」を襲名させた(七代目) この名は留め名であり、小三治より格上であった。
これにより本来海老名家とは縁のない「林家」の屋号を名乗ることになったのである。
一方馬楽は空席の名跡を探していた時、怪談噺を得意とする「正蔵」が丁度空いている、と周囲に促され、急遽「一代限り」の約束で父同様五代目左楽を仲立ちに海老名家から正蔵の名跡を借り、八代目林家正蔵を襲名した。
父正蔵の一周忌すら済んでいないこの時期に、関係の薄い馬楽に名跡を譲らなければならなかったことは、当時の三平の境遇をよく表している。
名跡は貸与しただけであり、勿論馬楽が三平の後見となってくれるというようなことは一切なかった。
一方、八代目正蔵側から見れば、七代目正蔵襲名に至る経緯を知っているために、この名跡を「貸与」とする扱いには釈然としなかったらしい(「七代目林家正蔵」参照)。
七代目橘家圓蔵は、師匠八代目桂文楽に破門された後、七代目林家正蔵一門に弟子入りして2年間を過ごし、その後社会の最底辺で職業を転々とする文字通りの「てんてん人生」に甘んじた。
圓蔵は、生涯を通じて落語が下手で、後世の評価でも三平の下手を遥かに上回るといわれている。
2023/5/30(火)



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